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再びテアトル・コメディイについて
ふたたびテアトル・コメディイについて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集21」 岩波書店
1990(平成2)年7月9日
初出「劇作 第一巻第六号」1932(昭和7)年8月1日
入力者tatsuki
校正者門田裕志
公開 / 更新2007-12-19 / 2016-05-12
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 この劇団の目標は、いろいろの機会に、当事者の意見として発表されたものでも察せられ、殊に、その演出目録によつて私などには十分わかるつもりであるが、今や、少しづつ、その中心を失ひかけてゐる危険を感じだした。
 実のところ、この劇団の仕事は、まだ趣味乃至道楽の域を脱してをらぬ。これは善い意味にも悪い意味にも、築地座などと対照的にさういへるのであつて、私は、何れにも全部的に与するわけではないが、仮に、この若い劇団の将来を考へる時、現在の行き方が、どこまで彼等を成長させるか、その点に多少不安をもつのだ。
 トリスタン・ベルナアルの「懐を痛めずに」や、モルナアルの「芝居は誂向き」は、共に、「面白い」出し物であり、日本の劇壇では、何れも新鮮な魅力を発揮し得るに違ひないものだが、さて、これを上演するに当つて、西洋でもどうかと思はれるほどの「当てこみ」に終始したのは、やや諒解に苦しむのだ。もともと、この二作たるや、世が世ならば、新劇の風上にはおけぬ代物で、凡そ、近代劇の意義ある進化の途上に於て、無礼なる存在であるが、さう開き直るのは当節野暮の骨頂だ。私は、寧ろ、これらの作品を以て、蒼ざめた日本新劇に、多少の活気を与へる、安手ながら一時の清涼剤だと心得てゐる。
 しかしながら、その「安手」なところを、あまり「安手」に扱はうとしたところが、この劇団のいはば不心得である。なぜなら、文学的には安手でも、舞台的には、この二作、それぞれ「由緒の深い」技巧上の伝統をもつてをり、生なかの俳優では演りこなせない仕組がかくされてゐるからだ。
 つまり、かの「フィガロの結楯」以来、連綿と伝はつてゐる西洋劇の浪漫的トリックといふものは、その演技の特性を無視しては一顧の価値なきものである。勿論、日本の新劇は、そんなものを学ぶ暇はなかつたし、また、それを排斥したところに西洋近代劇運動の真意があつたのであるが、また翻つて省みれば、日本の新劇は、専ら、西洋近代劇の移入から出発したために、この種の舞台的トリックに関する演技上の伝統を全く身につけてゐないのである。
 それ故、これは、日本の新劇俳優にとつては、なんとかしなければならぬものである。そこに気がつくだけでも、この劇団にとつては、新しい出発である。所謂、「面白い」といふ宣言の裏に、そこまでの認識が潜んでゐたならば、今度の公演に於て、既に、われわれをある驚異にまで導いたであらうと思はれるが、金杉君、どうですか?
 批評をすれば、かうやかましく云ふのだが、然し、大体に於て、私は、愉快に、モルナアルの二幕までを見物した。
 そして、この機会に、やや声を大にして云ひたいことは、一座のヴデット、長岡輝子夫人の聡明な慎ましさもさることながら、森雅之君の、これは天稟に相違ない俳優的感性の鋭さ、殊に、教養と生活の裏づけによるスマアトな近代性は、凡そ今日までの新劇を通じ…

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