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昭和十年度劇界への指針
しょうわじゅうねんどげきかいへのししん
作品ID44896
著者岸田 国士
文字遣い新字旧仮名
底本 「岸田國士全集28」 岩波書店
1992(平成4)年6月17日
初出「新演劇 第三巻第一号」1935(昭和10)年1月1日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-03-31 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 拝復
 別に新しい意見でもありませんが、小生の持論を要約します。
 一、歌舞伎劇は旧きが故に、純化されたるが故に善いのであつて、これを現代向きに、或は、通俗的にしてしまつては切角の値打がなくなる。それ故、これを営利事業と結びつけることは歌舞伎劇のために甚だ危険である。若し、現在の観衆が、髷物をよろこぶと云ふなら、よろしく、歌舞伎劇から分離した大衆時代劇(既にこの種のものが所謂歌舞伎俳優によつて演ぜられてゐる)を与へるがよろしい。但し、純粋の歌舞伎俳優は、現代意識を盛つた大衆時代劇は演じ得まいと思はれる。
 二、所謂新派劇こそは滅ぶべきである。文化的意義が全然ないからである。但し、新派俳優は滅んではならず、また、文字通り滅びはすまい。即ち、現在の新派俳優中、将来ある人々は、自然、所謂「新派臭」から脱して、現代の新鮮な空気を呼吸するであらう。さうすれば、その時は、もう新派俳優ではなく、現代劇俳優であり、新派劇今日の姿は都会から影を消すであらう。
 三、新劇は、近き将来に於て、現代大衆劇(勿論文化的意義をもつ)と先駆的、純芸術的演劇とに分離しなければなるまい。これは勿論程度の問題であるが、一は職業的に大劇場に進出し、一は研究的に小劇場に籠るであらう。今日の新劇の病弊或は危機と称すべきは、研究劇としてしか通用せぬものが、職業的野心をのぞかせてゐることである。最初から現代通俗劇を目指して修業をするものもあつていゝが専門家によらなければ飯が食へぬといふことぐらゐ心得てゐてよからう。更に、先駆的、研究的、純芸術的演劇を目指す仕事も、これは、「素人でも、ある特殊な一面に於て」その意図を示し得るのであつて、決して、玄人になつてはならぬといふ理由はない。素人でもやがては、修業を誤らなければ一人前の専門家になる。その時、彼等の大部分は、時代的に先駆者であり得なくなる。自ら普遍性をもつて来る場合もある(浅薄なお先走りは別として)。更に、研究的な仕事を続けるわけに行かぬ(妻子を養はねばならぬ等)。従つて、純芸術的な立場を守りたいが、さうも行かぬといふ事情が生じる。さういふ人々は、次の時代から押し上げられ、又は次の時代にその席を譲つて、自分は、所謂「職業人」となることに甘んじなければならぬ。そこにも、なほかつ、一つの意義ある仕事が待つてゐるのである。即ち、若し彼等を迎へ入れる商業劇場があれば、それらの舞台を、少しでも、「芸術的に」「新時代的に」刺戟発展させる役割がそれである。
 ところで、現在までの新劇は、さういふ当り前の見通しがついてゐなかつた。これは、今日の商業劇場が歌舞伎と新派の伝統で固められてをり、「新時代的にも」を受け容れるに適しないからでもあるが、一方、新劇が、何時までも「素人」であることを余儀なくされ、又は得意としてゐたからである。従つて、今更「先駆的」でなくなつた「新…

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