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鉄砲
てっぽう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「文芸 第一二巻第二号」1944(昭和19)年2月1日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-11-02 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 天文十二年八月二十五日(四百一年前)乗員百余名をのせた支那船が種子ヶ島に漂着した。言葉は通じなかつたが、五峯といふ明の儒生が乗つてゐて筆談を交すことができた。ところが、船中に特に異様な二名の人物がゐる。一人をフランシスコ、他をダ・モータと云ひ、ポルトガルの商人で、この両名が各自その手に不思議な一物をブラ下げてゐた。
 一物の長さは二三尺。中央を孔が通つてゐる。非常に重い。火を通じる路があり、孔中に妙薬を入れ、小団鉛を添へ、底を密塞しておいて、海岸に的を置く。一物を肩に当て腰をひねつて横向きに構へ、目を眇にして、火をつける。電光。驚雷の轟音。的が射抜かれてゐるのである。見物の一同、耳をふさいで、砂の中に頭をもぐした。
 この一物の一発たるや、銀山摧くべし、鉄壁穿つべし、姦[#挿絵]の人の国に仇をなす者、之に触るればたちどころにその魄を喪ふべし、まことに稀代な珍品だ。そこで領主(種子ヶ島時尭)は高価を意とせず言ひ値で之を購めた。二挺で二千両だつたとさるポルトガルの水夫の一人が書いてゐるが、当にならないさうである。
 二名の南蛮人を師匠にして、目を眇に腰をひねつて的を睨む秘伝の伝授を受け、同時に、篠川小四郎に命じて妙薬のねり方を会得せしめ、金兵衛尉清定といふ工人に命じて模造せしめた。形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段が分らぬ。翌年訪れた南蛮船に鉄匠がゐたので、秘訣を会得したといふ。鉄砲伝来の日は、日本の実在が西欧に知れた最初の日でもあつた。
 紀州根来寺の杉坊といふ者がこの話を伝へきいて、千里を遠しとせず漕ぎつけ、一物の譲渡を乞ふた。時尭は煩悶した由であるが、我の好むところ人も亦好むといふ悟りに達して譲つてやつたといふ。又、堺の商人で橘屋又三郎といふ男がこの島に二ヶ年滞在、製法を会得して近畿に伝へ、鉄砲又といふ渾名を得た。時尭からは一物を将軍に献上したから、足利義輝は近江阪田郡国友村の藤二郎に百貫の知行を与へて製造に従事させ、国友村は後日信長の手に移り、技法発達して、信長の天下を将来した。

 鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島で三百挺用ひたのが最も早い一つであつたさうである。
 信玄は戦術の研究家で、各種兵器を機能に応じて適所に使用し、各種兵器の単位を綜合して合理的に戦力を組織するといふやり方だつたので、新来の武器を見逃す筈はなかつた。けれども、彼の用ひた鉄砲は始めて伝来したばかり、まだ甚だ幼稚であつた。火縄銃は弾ごめに時間がかゝる。発射から次の発射に少からぬ時間があるから、歩兵に突撃の隙を与へる。突撃されゝばそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびつた。要するに鉄砲なるものは、その最初の射撃をふせぎさへすれば弾ごめの時間に蹂躪できる、といふ結論に達したから、竹束によつて最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防備あれば威力なしと見切りをつけて、鉄…

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