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青い焔
あおいほのお
作品ID46967
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2017-01-08 / 2016-12-17
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一章

 霧の深い夜が毎晩のやうに続いた。黒々と打ち続いた雑木林の繁みの間から流れ出して来るかのやうに、それは月光を浴びて乳色に白みながら、音もなく菜園の上に拡がりわたつた。梨畑が朦朧と煙つた白色の中に薄れて行くと、連なつた葡萄棚の輪郭も徐々に融かされて行き、あたりはただ乳白の一色に塗り込められてしまふ。はるか向うの、群がつた木立の中にちらちらと見えがくれする病舎や病棟のあかりも、ぼんやりと光芒がただれて、大地は真白な雲の底に沈んでゐるやうであつた。
 さつきから深い物思ひに耽りながら、首を垂れてのろのろと歩いてゐた野村英吉は、湯気を吸ひ込んだ着物のすそにしつとりと重みを感じ、足下から這ひ上つて来る冷気を素足に覚えると、何気なく立停つて空を仰いで見た。月はぼんやりとかげり、霧は幾万の微粒子となつて重なり合ひながら、かなりの速度でゆらめき流れてゐる。彼は暫くの間棒のやうに突つたつたまま霧粒を眺めてゐた。が、ふと、俺はなんだつて突つたつてゐるんだらうといふ疑問がちらと頭をかすめると、また苛立たしいものが心の中に湧いて来て、急いで足を動かし始めた。けれど二三間も歩かぬうちにまたぴたりと足を停めると、俺はなんだつて急いで歩くのだらう、急ぐ必要は少しもありやしない、と例のやうにぶつぶつと口のうちで独言ちるのであつた。しかし立停つてゐても結局どうにもならないではないかと思ひ、彼はやはり以前のやうな調子でのろのろと歩くより致方がないと気づくのだつた。ああ、ああ、嫌なこつた、こんなくだらない散歩がもう幾晩続いてゐることだらう――。
 風もなく、霧は少しづつ濃度を加へて、野村の周囲七八間の限界を残しただけで真白であつた。時々その煙つた中から若い男や女の声が聴え、やがて野村の限界に黒い斑点となつて現はれると、今晩はと声をかけて再び乳白色の中に消え去つて行くのだつた。
 果樹園の入口まで来ると、野村はふとそこの番小屋に住んでゐる老人を思ひ出し、それではひとつ葡萄でも御馳走にならうとその方へ足を向けて見たが、生憎と老人は留守であつた。彼は扉のしまつた小屋の前に暫くぼんやりと立つてゐたが、仕方なくまたぶらぶらと歩き始めた。まるで極楽から締出しをくらつた亡者みたいだぞ俺は、と彼はそんなことを呟くと、なんとなくにやにやと頬のあたりに笑ひが漂つて来るのだつた。その笑ひを意識すると、今度はかなり大きな声ではッはッはッと短く笑つて見て、どらこれから秋津大助のところへ出かけてみよう、と彼は幾らか足を早め出した。「この野郎、全く気色の悪い奴だ。」と野村の微苦笑を見る度に言ふ秋津の言葉を、ふと今の自分の笑ひで連想したのであつた。秋津大助は動物小屋の薄暗い中で猿を相手に暮してゐる、それでは葡萄棚の下を潜つて真直ぐに行くのが一番近道であると気づいた。
 が、棚のすぐ間近くまで来た時、野村はまた若い男女…

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