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よもやまの話
よもやまのはなし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「ラ・フゥルミ 九号」1934(昭和9)年11月23日
入力者村松洋一
校正者なか
公開 / 更新2010-11-25 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ジイド全集ももうあと三冊で完了する。寔によく読まれよく評されて来た。今更私なぞがジイドのことを書くにも当るまい。ジイドのことを書けとて与られた紙面ではあるが、そのやうなわけで今はよもやまの話をさせて貰はうと思ふのである。

       ※

 ソクラテスからジイド迄、いやもつと前からジイド迄かも知れぬ、僅々七十年間に、一とわたり読破した我が日本の力といふものは、世にも恐ろしい力である。だがまた振返つて考へてみると、そこには可なりな消化不良がないとは云へぬ。扨日本の力が偉大であることに関しては、誰も異論のあらうわけはないから、その方はそれとして今日はその消化不良の方を論じて見たいと思ふ。
 御覧の通りに僅々七十年間に、ソクラテスからジイド迄読破することが出来たといふのは、もとより負けじ魂に由るものであるが、注意すべきは、その負けじ魂といふよりかも、我等が粗朴であつたからである。何故かといふに、我等がもつと粗朴でないものであつたとしたら、かくも尨大な文献の前に、突然身を置いた我等として、その一冊一冊に取掛からうとするまへに、かくも尨大な文献の前に突如連れて来られたといふ我等の運命に就いて先づ考へようとしたであらう。即ち、文献を見る前に、文献の存在といふことに思ひを致したであらうといふのである。どうせ短い人間一生の前には、その日まで全然見も知らずにゐた西欧二千年の文献の、余りに奇異にも尨大であつたことは当然である。
 それを兎も角手当り次第に手を付けたといふことは、我が同胞の、粗朴であつたればこそである。而して、勿論それは好もしいことであると同時に、その裏にはまた少々悲しい事情もなかつたとは云へぬ。
 即ち、統一だの全体性だのと称ばれるものは、其処に欠乏してゐたのである。云換れば、其の西欧二千年の文献の、そのあれやこれやが、誰かの口によつて少し唱へられさへすれば、人々はその方へドヤドヤと寄り、それを一通り見た頃にはもう飽き飽きしてゐたのである。其処に、「自分」といふものは甚だ稀薄であり、一種の流行があつたばかりといふも強ち過言ではないのである。
 かうした事情は、明治・大正といふ、みるべき批評精神もなく、人は只渉猟に忙しかつた時期に於てさうであり、批評盛んな現今に於て猶さうなのである。
 而して、現今批評の盛んとなつた所以のものは、明治・大正の不消化の反動とも考へられる。――人はあせりにあせり、もつともつとと渉猟した揚句は、益々不消化となり益々苛立つて、その不消化解消にもと、益々渉猟するのだが、どうも不消化は解消しさうにもないといふので急に重曹を飲用するやうに、批評書へと赴くのではあるまいか。
 かくては「統一」の要求は忘れ果てられるのみならず、昔日の粗朴ささへもが、はや「血迷つた粗朴さ」でしかないのである。
 此の有様では、今後五十年後の我が文学は予想するだ…

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