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たび
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「飯待つ間」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年3月18日
初出「ホトトギス 第二巻第十号」1899(明治32)年7月20日
入力者ゆうき
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-05-27 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


○旅はなさけ、恥はかきずて、宿屋に著きて先づ飯盛女の品定め、水臭き味噌汁すすりながら、ここに遊君はありやといへば、ござりまする、片田舎とて侮り給はば思はぬ不覚を取り給ふべし、などいふ、今の世の中に旅といふもの可愛い子にはさせまじき者なり。白河二所の関とは一夫道にあたりて万夫も進まざる恐ろしき嶮岨、鬼も出づべしと思ひきや、淋しき町はづれにいかめしき二階づくり、火にぎやかにともし連ねたるを何ぞと近よれば、ここも一廓、秋風の吹かぬ処ぞかし。名所なつかしさに、某の君を見たてて一夜うかれ遊び酒一盃呑むにもあらねば、素話身にしみて、かた様のお国はと問はるるに、東京と答ふれば、吉原といふ処面白いさうな、吉原で遊び給ふ身のここらでは遊ばれまじ、といふ。東京は広し、同じ処に居ても吉原は知らぬといへど誠とせず。そなたの生れはと問へば、越後でござりまする、朋輩の何がしは三年のつとめ済んで、身のしろ金で嫁入りしたさうな、うらやましやといふ。媚びるにもあらず、ふるにもあらぬ質朴の田舎かたぎ、おとなしきが気に入つて、財布の底を払ひたるもをかしく、帰りがけに名を聞きしがそれも忘れける。鯖名といふ温泉にて雨にふられ、旅のうさ今更覚えけるを、廓ありと聞きて、宿屋の庭下駄に知らぬ闇路踏んで、凌霄咲く門に這入りける。翌朝、宿へ帰ればここの小もの笑ふて、ゆうべ旦那の買はれしは、やつがれと同じ国の生れなりといふ。狭い処では一夜のうちに何も彼も知れぬはなし。浜松にて束の間の逢瀬、何処やらに惚れこみ、志を少し紙にひねつて、彼にも知らさずその袖に投げこんだを、あとで何と言ひしやら聞きたし。大垣の宿屋、家は小さけれど間は奇麗なり。女の色白き事ここの名物なるべし。膳はこぶ小女郎、あたら惜しきものに思へどせんなし。京にても宿屋の下女、さすがになまめきて、三日のなじみ、さはらば落つべかりしが、それもここにては掃き捨てるほどぞかし。それよりも不思議は、一生にただ一度の思ひは残る木曾川の停車場とて田の中に茶屋三軒、その一軒に憩ひて汽車待ち合はせしに、丸顔に眼涼しく色黒き女、十六ばかりに何の見処もなきが、これはまた如何にしてか心の奥までしみこんで、ここに一夜を明す言ひ草まだ考へつかぬ内に、汽車が参りました、お急ぎなされませ、と彼女かひがひしく我が荷物さきに持ちて走るに我もおくれじと汽車に走りこみける。その無邪気な顔どうしても今に忘られず。大方三人の子はあるべし。
〔『ホトトギス』第二巻第十号 明治32・7・20〕



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