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水郷異聞
すいごういぶん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」 国書刊行会
1995(平成7)年8月2日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-07-10 / 2014-09-16
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

[#挿絵]

 山根省三は洋服を宿の浴衣に着更えて投げだすように疲れた体を横に寝かし、隻手で肱枕をしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待っていてこの旅館に案内するので、ひと休みしたうえで、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなった聴講者に向って、三時間近く、近代思想に関する講演をやった壮い思想家は、その夜の八時比にも十一時比にも東京行の汽車があったが、一泊して雑誌へ書くことになっている思想をまとめようと思って、せめて旅館まででも送ろうと云う主催者を無理から謝絶り、町の中を流れた泥溝の蘆の青葉に夕陽の顫えているのを見ながら帰って来たところであった。
 それは静な黄昏であった。ゆっくりゆっくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらえて、それが窓の障子の方へ上斜に繋がって浮いて往った。その障子には黄色な陽光がからまって生物のようにちらちらと動いていた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思い浮べてそれを吟味していた。彼が雑誌へ書こうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云う論文に対する反駁であった。
「御飯を持ってまいりました」
 婢の声がするので省三は眼をやった。二十歳ぐらいの受持ちの婢が膳を持って来ていた。
「飯か、たべよう」
 省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがったが、脇の下に敷いていた布団に気が注いてそれを持って膳の前へ往った。
「御酒は如何でございます」
 婢は廊下まで持って来てあった黒い飯鉢と鉄瓶を執って来たところであった。
「私は酒を飲まない方でね」
 省三はこう云ってから白い赤味を帯びた顔で笑ってみせた。
「それでは、すぐ」
 婢は飯をついでだした。省三はそれを受け執って喫いながら、こんな世間的なことはつまらんことだが、こんなばあいに酒の一合でも飲めると脹みのある食事ができるだろうと思い思い箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたそうで、お疲れでございましょう」
 その婢の声と違った暗い親しみのある声が聞えた。省三はびっくりして箸を控えた。そこには婢の顔があるばかりで他に何人もいなかった。
「今何人か何か云った」
 婢は不思議そうに省三の顔を見詰めた。
「何んとも、何人も云わないようですが」
「そうかね、空耳だったろうか」
 省三はまた箸を動かしだしたが彼はもうおち着いたゆとりのある澄んだ心ではいられなかった。急に憂鬱になった彼の目の前には、頭髪の毛の数多ある頭を心持ち左へかしげる癖のある壮い女の顔がちらとしたように思われた。
「おかわりをつけましょうか」
 省三は暗い顔をあげた。婢がお盆を眼の前へ出していた。彼は茶碗を出そうとして気が注いた。
「何杯目だろう」
「今度おつけしたら、三杯でございます」
「では、もう一杯や…

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