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詩壇への願ひ
しだんへのねがい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「文芸通信」1937(昭和12)年2月号
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-04-01 / 2015-03-08
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 詩壇は今や、一と通りの準備をすませた。絵の具も画架も揃ひ、まづまづ龍は描いたが、まだ点睛がないといふのが昨今の状勢である。従つて各人各様の特質にも拘らず、可なり大同小異の観があることは脱れられない。扨今後その中の若干なり未知の人なりが点睛を示し始める時、詩壇ははじめて面白くなるのであらうと私は思つてゐる。
 そんな次第であるから、今私は「私の推賞する詩人」といふ課題を貰つたのだが、今誰をといつて格別推賞したくはない。そこで私は此の後詩が点睛を得るためには、どんなことが必要であらうかといふことを、考へてみることにしたいと思ふ。今の詩に何が欠けてゐるといつて、感情よりも欠けてゐるものがあらうとは思へない。
 扨その原因を、暗中模索の揚句、社会問題に持つて行つて、其処で解決を得られると思ふ人も相当あるけれども、私にはさうは思はれぬ。勿論其処にもその原因の説明に役立つ材料はあるかも知れぬが、根本原因はそんな所にはない。芸術不振の原因を社会の事情に在りとする見方は、常に十分なものではない。
 例へば日々報道される様々な事件が、昔人間の数の少なかつた時よりも、人の感動を鈍らせ易いものだといふことが云へるとしても、而も芸術とはさういふ事情の問題ではなくして、さういふ事情の中にあつても猶感動する人がゐたら、その人が感動した感動に基因して表現するに到る所のものである。要は、芸術家その者の感動の深浅が問題であつて、「事情」はあくまでも与件にしか過ぎぬ。諸君がもし一個の林檎に如何にも惚れ惚れとしたら、それを描きたくなるであらう。その時その林檎と、果実商組合とは何の関係もない。要は、その林檎に如何にもほれぼれとしたら諸君は芸術家だといふことだ。
 林檎なぞに感動してはをれぬといふ人があるかも知れぬが、お望みとならパンにでもルンペンにでも感動するがいい。感動したらその感動がやがて芸術であり、何もその感動の誘因となつたパンが芸術でもなければルンペンが芸術でもない。
 たゞ茲で附加へたいことは、感動が、点睛の実現にまで到達する、つまりのどいりのする感動であるためには、私はどうしても宗教が必要だと思ふ。つまり超絶的対象といふものが必要だと思ふ。つまり他力本願が必要だと思ふのだ。これは一見逃避のやうに見えるかも知れないが、人間自分が自分を生んだのでないからには、自力をだけ恃むのではどうしても根無草だと思ふのだ。自分だけでどんなに立派にやれても、根だけはないのだ。自分だけを恃むといふことは、如何にも立派な心懸けだが、全的な実現には到れぬものだと思ふ。勿論、努力を棄てろといふのではない。努力を尽しても、猶天命は俟たねばならないものだといふことを、努力の際中でも予想出来るのでなければ、努力といふことも畢竟何のための努力か分らなくなり、そんな所から美は出て来ないと思ふのだ。
 自力だけを恃み、方法…

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