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一つの境涯
ひとつのきょうがい
作品ID55781
副題――世の母びと達に捧ぐ――
――よのははびとたちにささぐ――
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2016-04-29 / 2016-03-04
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

普通に人々が、この景色は佳いだのあの景色は悪いだのと云ふ、そんなことは殆んど意味もないことだ。人の心の奥底を動かすものは、却て人が毎日いやといふ程見てゐるもの、恐らくは人々称んで退屈となす所のものの中にあるのだ。
筆者不詳

 寒い、乾燥した砂混りの風が吹いてゐる。湾も、港市――その家々も、たゞ一様にドス黒く見えてゐる。沖は、あまりに稀薄に見える、其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海の中からマストがのぞいてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。
「その時はまだ、閉塞隊の沈めた船のマストが、海の上にのぞいてをつた」と、貧血した母の顔が、遠くの物でも見てゐるやうに、それでもそんな時にはなにか生々と、後年私の生後七ヶ月の頃のことを語つて呉れるたびに、私は何時も決つて右のやうな風景を心に思ひ浮べるのである。つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かに一度は、そのマストを映したことであつたらうが、もとより記臆してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチツと決つた風景が浮ぶところをみれば、或ひは潜在記臆とでもいふものがあつて、それが然らしめるのではないかと、埒もないことを思つてみてゐるのである。
「岡宮さん、あゝ、岡宮さん――岡宮さんはほんとにあんたを可愛がつたものだ。患者の暇々には日に何べんとなくやつて来て、そしてはあんたを抱いたものだ。看護衣のまゝで抱かれるのは少しいやでもあつたけれど、心底可愛さうに抱いてるのにそんなことも云へなかつた……」と、母の話はマストの次には岡宮さんである。すると私は白い糊の付いた看護衣の、長い四角い顔の、スリッパを穿いた男を想ひ出すのである。その男が私を抱いて、なんだか枯れかけた松林のやうな庭のやうな所を、そぞろに歩いてゐる古いフィルムでも見るやうに光景を、想ひ出すのである。
「それから少し歩けるやうになると、一寸油断すればあんたは病院に出掛ける。病院は庭続きだつたもんだから。それから眼科の室にも覗けば内科の室にも覗く、一つ一つ丁寧に部屋を覗いてニコニコツと笑つてはまた次の部屋を覗く。医者も患者も面白がつて、病院中の人気者だつた。」
 翌年の春になつて暖かくなると、忠魂塔の下に遊びに行つたものださうだ。今は亡き祖母に連れられて。行く途々に牛の糞の乾いたやつがあるたびに、それを拾つて口に入れようとするのには閉口したと、よく祖母は話してゐた。忠魂塔といへば忠魂塔の鉄で出来た模型を父は持つてゐた。後年郷里に住むやうになつてから、その模型は庭の躑躅の蔭の平たい石の上に置かれてゐた。それはその後何時どうしたものか失くなつたが、忠魂塔の周囲の棚が鉛で出来てゐて、それを私や私の弟は…

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