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文字と速力と文学
もじとそくりょくとぶんがく
作品ID56818
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日
初出「文芸情報 第六巻第一〇号」1940(昭和15)年5月20日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-02-12 / 2016-02-10
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はいつか眼鏡をこわしたことがあった。生憎眼鏡を買う金がなかったのに、机に向かわなければならない仕事があった。
 顔を紙のすぐ近くまで下げて行くと、成程書いた文字は見える。又、その上下左右の一団の文字だけは、そこだけ望遠鏡の中のように確かに見えるのである。けれどもそういう状態では小説を書くことができない。そういう人の不自由さを痛感させられたのであった。
 つまり私は永年の習慣によって、眼を紙から一定の距離に置き、今書いた字は言うまでもなく、今迄書いた一聯の文章も一望のうちに視野におさめることが出来る、そういう状態にいない限り観念を文字に変えて表わすことに難渋するということを覚らざるを得なかった。愚かしい話ではあるが、私が経験した実際はそうであった。
 私は眼を閉じて物を思うことはできる。けれども眼を開けなければ物を書くことはできず、尚甚しいことには、現に書きつつある一聯の文章が見えない限り、次の観念が文字の形にならないのである。観念は、いつでも、又必らず文字の形で表現なし得るかのように思われるけれども、人間は万能の神ではなく優秀な機械ですらない。私は眼鏡をこわして、その不自由を痛感したが、眼鏡をかけていても、その不自由は尚去らない。
 私の頭に多彩な想念が逞しく生起し、構成され、それはすでに頭の中で文章の形にととのえられている。私は机に向う。私はただ書く機械でさえあれば、想念は容易に紙上の文章となって再現される筈なのである。が、実際はそう簡単には運んでくれない。
 私の想念は電光の如く流れ走っているのに、私の書く文字はたどたどしく遅い。私が一字ずつ文字に突当っているうちに、想念は停滞し、戸惑いし、とみに生気を失って、ある時は消え去せたりする。また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。こうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもっていたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。
 この嘆息は文章を業とする人ばかりでなく、手紙や日記を書く人も、多かれ少かれ常に経験していることに相違ない。
 私は思った。想念は電光の如く流れている。又、私達が物を読むにも、走るが如く読むことができる。ただ書くことが遅いのである。書く能力が遅速なのではなく、書く方法が速力的でないのである。
 もしも私の筆力が走るが如き速力を持ち、想念を渋滞なく捉えることができたなら、どうだろう。私は私の想念をそのまま文章として表わすことが出来るのである。もとよりそれは完成された文章では有り得ないけれども、その草稿を手掛として、観念を反復推敲することができ、育て、整理することが出来る。即ち、私達は文章を推敲するのではなく、専一に観念を推敲し、育て、整理しているのである。文章の本来は、ここ…

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