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沼地
ぬまち
作品ID113
著者芥川 竜之介
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日
初出「新潮」1919(大正8)年5月
入力者j.utiyama
校正者もりみつじゅんじ
公開 / 更新1998-12-28 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えないほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。画は確か、「沼地」とか云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。
 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。
 しかしその画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑な淤泥の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。
「大へんに感心していますね。」
 こう云う言と共に肩を叩かれた私は、あたかも何かが心から振い落されたような気もちがして、卒然と後をふり返った。
「どうです、これは。」
 相手は無頓着にこう云いながら、剃刀を当てたばかりの顋で、沼地の画をさし示した。流行の茶の背広を着た、恰幅の好い、消息通を以て自ら任じている、――新聞の美術記者である。私はこの記者から前にも一二度不快な印象を受けた覚えがあるので、不承不承に返事をした。
「傑作です。」
「傑作――ですか。これは面白い。」
 記者は腹を揺って笑った。その声に驚かされたのであろう。近くで画を見ていた二三人の見物が皆云い合せたようにこちらを見た。私はいよいよ不快になった。
「これは面白い。元来この画はね、会員の画じゃないのです。が、何しろ当人が口癖のようにここへ出す出すと云っていたものですから、遺族が審査員へ頼んで、やっとこの隅へ懸ける事になったのです。」
「遺族? じゃこの画を描いた人は死んでいるのですか。」
「死んでいるのです。もっとも生きている中から、死んだようなものでし…

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