えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
老いたる素戔嗚尊
おいたるすさのおのみこと |
|
作品ID | 118 |
---|---|
著者 | 芥川 竜之介 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學大系 43 芥川龍之介集」 筑摩書房 1968(昭和43)年8月25日 |
初出 | 「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1920(大正9)年3~6月 |
入力者 | j.utiyama |
校正者 | かとうかおり |
公開 / 更新 | 1999-01-17 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
高志の大蛇を退治した素戔嗚は、櫛名田姫を娶ると同時に、足名椎が治めてゐた部落の長となる事になつた。
足名椎は彼等夫婦の為に、出雲の須賀へ八広殿を建てた。宮は千木が天雲に隠れる程大きな建築であつた。
彼は新しい妻と共に、静な朝夕を送り始めた。風の声も浪の水沫も、或は夜空の星の光も今は再彼を誘つて、広漠とした太古の天地に、さまよはせる事は出来なくなつた。既に父とならうとしてゐた彼は、この宮の太い棟木の下に、――赤と白とに狩の図を描いた、彼の部屋の四壁の内に、高天原の国が与へなかつた炉辺の幸福を見出したのであつた。
彼等は一しよに食事をしたり、未来の計画を話し合つたりした。時々は宮のまはりにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房の地に落ちたのを踏みながら、夢のやうな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつた。彼は妻に優しかつた。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のやうな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつた。
しかし稀に夢の中では、暗黒に蠢く怪物や、見えない手の揮ふ剣の光が、もう一度彼を殺伐な争闘の心につれて行つた。が、何時も眼がさめると、彼はすぐ妻の事や部落の事を思ひ出す程、綺麗にその夢を忘れてゐた。
間もなく彼等は父母になつた。彼はその生れた男の子に、八島士奴美と云ふ名を与へた。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であつた。
月日は川のやうに流れて行つた。
その間に彼は何人かの妻を娶つて、更に多くの子の父になつた。それらの子は皆人となると、彼の命ずる儘に兵士を率ゐて、国々の部落を従へに行つた。
彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝はつて行つた。国々の部落は彼のもとへ、続々と貢を奉りに来た。それらの貢を運ぶ舟は、絹や毛革や玉と共に、須賀の宮を仰ぎに来る国々の民をも乗せてゐた。
或日彼はさう云ふ民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年の彼のやうな、筋骨の逞しい男であつた。彼は彼等を宮に召して、手づから酒を飲ませてやつた。それは今まで何人も、この勇猛な部落の長から、受けたことのない待遇であつた。若者たちも始めの内は、彼の意嚮を量りかねて、多少の畏怖を抱いたらしかつた。しかし酒がまはり出すと、彼の所望する通り、甕の底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱つた。
彼等が宮を下る時、彼は一振の剣を取つて、
「これはおれが高志の大蛇を斬つた時、その尾の中にあつた剣だ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷の女君に渡してくれい。」と云ひつけた。
若者たちはその剣を捧げて、彼の前に跪きながら、死んでも彼の命令に背かないと云ふ誓ひを立てた。
彼はそれから独り海辺へ行つて、彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向うに、遠くなつて行くのを見送つた。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空を行…