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妖怪年代記
ばけものねんだいき |
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作品ID | 1189 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻64 怪談」 作品社 1996(平成8)年6月25日 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-04-04 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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一
予が寄宿生となりて松川私塾に入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他に密に期することのありけるなり。
加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧は旗野と謂へりし千石取の館にして、邸内に三件の不思議あり、血天井、不開室、庭の竹藪是なり。
事の原由を尋ぬるに、旗野の先住に、何某とかや謂ひし武士のありけるが、過まてることありて改易となり、邸を追はれて国境よりぞ放たれし。其室は当時家中に聞えし美人なりしが、女心の思詰めて一途に家を明渡すが口惜く、我は永世此処に留まりて、外へは出でじと、其居間に閉籠り、内より鎖を下せし後は、如何かしけむ、影も形も見えずなりき。
其後旗野は此家に住ひつ。先住の室が自ら其身を封じたる一室は、不開室と称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。
然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然せる怪無きも、後住なる旗野の家に吉事ある毎に、啾々たる婦人の泣声、不開室の内に聞えて、不祥ある時は、さも心地好げに笑ひしとかや。
旗野に一人の妾あり。名を村といひて寵愛限無かりき。一年夏の半、驟雨後の月影冴かに照して、北向の庭なる竹藪に名残の雫、白玉のそよ吹く風に溢るゝ風情、またあるまじき観なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更るを覚えざりき。
お村も少しくなる口なるに、其夜は心爽ぎ、興も亦深かりければ、飲過して太く酔ひぬ。人静まりて月の色の物凄くなりける頃、漸く盃を納めしが、臥戸に入るに先立ちて、お村は厠に上らむとて、腰元に扶けられて廊下伝ひに彼不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆太く、ほと/\と板戸を敲き、「この執念深き奥方、何とて今宵に泣きたまはざる」と打笑ひけるほどこそあれ、生温き風一陣吹出で、腰元の携へたる手燭を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件の部屋を覗けば、内には暗く行灯点りて、お村は脛も露に横はれる傍に、一人の男ありて正体も無く眠れるは、蓋此家の用人なるが、先刻酒席に一座して、酔過して寝ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己が傍に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着かざる状になむ。此腰元は春といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵を得てお部屋と成済し、常に頤以て召使はるゝを口惜くてありけるにぞ、今斯く偶然に枕を並べたる二人が態を見るより、悪心むらむらと起り、介抱もせず、呼びも活けで、故と灯火を微にし、「かくては誰が眼にも……」と北叟笑みつゝ、忍やかに立出で、主人の閨に走行きて、酔臥したるを揺覚まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候[#「候」は底本では「侯」]」と欺きければ、短慮無謀の平…