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好悪の論
こうおのろん
作品ID12618
著者折口 信夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「折口信夫全集 第廿七巻」 中央公論社
1968(昭和43)年1月25日
初出「日本文學講座 第十卷」1927(昭和2)年10月
入力者高柳典子
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-01-17 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

鴎外と逍遙と、どちらが嗜きで、どちらが嫌ひだ。かうした質問なら、わりに答へ易いのです。でも、稍老境を見かけた私どもの現在では、どちらのよい處も、嗜きになりきれない處も、見え過ぎて來ました。それでやつぱり、かうした簡單な討論の方へ加はれさうもありません。だからまして、廣く大海を探つて一粟をつまみあげろと言つた難題には、二の脚を踏まずには居られません。さあだれが嗜きで誰が嫌ひ。そんな印象も殘さない樣な讀み方で、作品を見續けて來た幾年の後、靜かにふりかへつて見ても、假作・實在の人物の性格や生活に、好惡を考へ分ける事が出來なくなつてゐます。今度、あなたの出題で、はじめて私どもの讀み方の、一面からは變であつた事に氣がつきました。家康を狸おやぢときめ、ざつくばらんな秀吉をひいきにする樣には、參りかねる樣になつて居た心境に心づきました。こんな言ひ方をするのも、甚だ人ずきのしないねつとりした人物の標本に、自分で据りこむ樣で氣がひけます。けれども、正直、氣どりなしに、あなたの閻魔帳の黒丸に値する「わかりません」を以て應ずる外はありません。
だが強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。
文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
逍遙博士はまだ生きて居られるので、問題にはしにくいと思ひますが、あの如何にも「生き替り死に變り、憾みを霽らさで……」と言つたしやう懲りもない執著が背景になつて、わりに外面整然としない作物に見失はれがちな、生活表現力を見せてゐます。つまりは、あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ないのです。この意味の「嗜かれる」といふことは、よい生活を持ち來す、人間の爲になる文學、及び作者の評言といふ事になるのです。
一茶の恥しい日記が後から/\出て來ても、一茶の文學が嗜かれ、一茶が磨かれ、よい人間生活の將來を希求した人として嗜かれて來るばかりではありませんか。其と共に、文學價値も高まつて來るのは事實です。
芭蕉に――まちがひだつたでせうが――妾のあ…

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