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雛妓
おしゃく
作品ID1285
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集 第5巻」 小学館
1986(昭和61)年12月1日
初出「日本評論」1939(昭和14)年5月号
入力者阿部良子
校正者松永正敏
公開 / 更新2001-04-03 / 2014-09-17
長さの目安約 54 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 なに事も夢のようである。わたくしはスピードののろい田舎の自動車で街道筋を送られ、眼にまぼろしの都大路に入った。わが家の玄関へ帰ったのは春のたそがれ近くである。花に匂いもない黄楊の枝が触れている呼鈴を力なく押す。
 老婢が出て来て桟の多い硝子戸を開けた。わたくしはそれとすれ違いさま、いつもならば踏石の上にのって、催促がましく吾妻下駄をかんかんと踏み鳴らし、二階に向って「帰ってよ」と声をかけるのである。
 すると二階にいる主人の逸作は、画筆を擱くか、うたた寝の夢を掻きのけるかして、急いで出迎えて呉れるのである。「無事に帰って来たか、よしよし」
 この主人に対する出迎えの要求は子供っぽく、また、失礼な所作なのではあるまいか。わたくしはときどきそれを考えないことはない。しかし、こうして貰わないと、わたくしはほんとに家へ帰りついた気がしないのである。わが家がわが家のあたたかい肌身にならない。
 もし相手が条件附の好意なら、いかに懐き寄り度い心をも押し伏せて、ただ寂しく黙っている。もし相手が無条件を許すならば暴君と見えるまで情を解き放って心を相手に浸み通らせようとする。とかくに人に対して中庸を得てないわたくしの血筋の性格である。生憎とそれをわたくしも持ち伝えてその一方をここにも現すのかと思うとわたくしは悲しくなる。けれども逸作は、却ってそれを悦ぶのである。「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」
 こういうとき逸作の眼は涙を泛べている。
 きょうは踏石を吾妻下駄で踏み鳴らすことも「帰ってよ」と叫ぶこともしないで、すごすごと玄関の障子を開けて入るわたくしの例外の姿を不審がって見る老婢をあとにして、わたくしは階段を上って逸作の部屋へ行った。
 十二畳ほどの二方硝子窓の洋間に畳が敷詰めてある。描きさしの画の傍に逸作は胡坐をかき、茶菓子の椿餅の椿の葉を剥がして黄昏の薄光に頻りに色を検めて見ていた。
「これほどの色は、とても絵の具では出ないぞ」
 ひとり言のように言いながら、その黒光りのする緑の椿の葉から用心深くわたくしの姿へ眼を移し上げて来て、その眼がわたくしの顔に届くと吐息をした。
「やっぱり、だめだったのか。――そうか」と言った。
 わたくしは頷いて見せた。そして、もうそのときわたくしは敷居の上へじわじわと坐り蹲んでいた。頭がぼんやりしていて涙は零さなかった。
 わたくしは心配性の逸作に向って、わたくしが父の死を見て心悸を亢進させ、実家の跡取りの弟の医学士から瀉血されたことも、それから通夜の三日間静臥していたことも、逸作には話さなかった。ただ父に就ては、
「七十二になっても、まだ髪は黒々としていましたわ。死にたくなさそうだったようですわ」
 それから、父は隠居所へ隠居してから謙譲を守って、足袋や沓下は息子の穿き古しよりしか穿かなかったことや、後…

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