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![]() まんようしゅうにあらわれたこだいしんこう |
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作品ID | 13206 |
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副題 | ――たまの問題―― ――たまのもんだい―― |
著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆62 万葉(二)」 作品社 1987(昭和62)年12月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 多羅尾伴内 |
公開 / 更新 | 2004-01-29 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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万葉集に現れた古代信仰といふ題ですが、問題が広過ぎて、とりとめもない話になりさうです。それで極めて狭く限つて、只今はたまに関して話してみます。
玉といへば、光りかゞやく美しい装飾具としての、鉱石の類をお考へになるでせう。又、万葉集で「玉何」と修飾の言葉としてついてゐるのは、その美しさを讚美した言葉だ、とお考へになるでせうが、多くの場合、それは昔からの学者の間違ひの伝承です。
我々が、神道の認識を改めねばならない時に当つて、それと関係の深いたまについての考察に、一つの別の立場を作るのも、思索上のよい稽古になると思ひます。万葉集に、
むらさきの 粉滷の海にかづく鳥。玉かづきいでば、わが玉にせむ(三八七〇)
といふ歌があります。おなじ万葉集でも「寄物陳思」の歌は、概してつまらない歌が多いものですが、これなども文学的に言へば、大きに失望させられる歌です。併し、昔の歌は文学的な動機で作つた[#「作つた」は底本では「作った」]ものが少くて、もつと外の動機――ひつくるめて言へば、信仰的な動機――で作つてゐるのです。此歌の意味は「粉滷の海にもぐつて、餌をあさつてゐる鳥――その鳥が、潜つて玉を取り出して来たら、おれは、その玉を自分の玉にしようよ」といふので、誰が見ても、すぐ何かもつと奥の方の意味があり相な気がします。まづ極平凡に考へてみても、古代人の饗宴の歌だと言ふことは思ひ浮びます。
年齢も、身分もまち/\でせうが、およそ同じ程度の知識を持つた同時代の人々が集つて、饗宴をしてゐるといふやうな場合です。その席で歌はれる歌は、列席の人々の知識で、解決出来るものでなければならないのです。併し、昔の人に訣つた歌だからといつて、今の人に訣る訣ではありません。昔の人の間だけに訣つた知識を詠んだ歌ほど、今人の知識には訣りにくいのです。この海には、玉が沈んで居相だ。それを自分の玉として装身具にしようといふ事によつて、列座の人々の興味をそゝつてゐるので、つまり海辺の饗宴の歌になりませう。「かづく」といふ事は、水に潜るといふ事ですが、獲ものを得る為に、もぐり込んで行つて、又もぐり出て来るといつた過程を含んだ言葉になります。だから「玉かづきいでば」は、もぐつて玉を取つて来たら、といふ事です。かういふ詞が、古人をして、一時颯爽たる生活に、遊ばしめたものでした。
万葉集に限つたことではなく、平安朝の民謡の中にも、玉が海辺に散らばつてゐる様に歌つたものが沢山あります。此は我々の経験には無い事だけれど、本とうに阿古屋貝か鮑珠を歌つてゐるのだらう、其に幾分誇張を加へて歌つたのだらうと思はれる位、玉の歌はうんとあります。又世間の人はさう信じてゐる様です。けれども、これは昔の人が真実を歌つてゐるのではありません。かういう場合、あゝいふ場合といふ風に、歌を作る機会が習慣できまつてゐる。さうして、機会に適当…