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山の音を聴きながら
やまのおとをききながら
作品ID13207
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆67 宿」 作品社
1988(昭和63)年5月25日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-01-20 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

ようべは初めて、澄んだ空を見た。宇都宮辺と思はれる空高く、頻りに稲光りがする。もう十分秋になつて居るのに、虫一疋鳴かない。小山の上の大きな石に腰をおろして居ると、冷さが、身に沁みて来るやうだ。物音一つしない山の中に、幽かに断え間なく響いて居るのは、夜鷹が谷の向うに居るのだらう。八時近くなつて、月の光りが明るくさして来た。八月末になつて、豪雨が三度も来て、山は急にひつそりしてしまつた。ま昼間、目の下の川湯に浸つて女や子どもなどが物言ふ声も、しんかんと響くくらゐである。山の湯宿の夜といふものは、何かみじめらしい穢さを感じるものだが、こゝは、一向さつぱりと静まつて居る。茶臼岳や、朝日岳の山襞がはつきり見えて来た。目の前の爪先上りが、一気に小半道も続いて居て、硫黄精煉所まで行つてゐる。さう言へば今も、二人連れの若い男が「お晩でございます」と声をかけて登つて行つた。其がもう、あんな高い処でほの暗くちらついて居る。
私は、月の光りの照つて居る石高道を歩いた。十四五の頃、初旅に出て以来、ひとりこんな晩に歩いた事が、幾度あつたか知れない。近年は旅をしても、多くは道連れが誰かある。
芭蕉などでも、治郎兵衛を伴にしたり、曾良を連れたりして、ひとり旅の味は、わりに身に沁みなかつたらう。こんな事を考へたこともあるが、思ふとさうばかりも言へない。気持ちの遠い人と歩いて居ると、心は何となくうはついて居るものだが、自分の身に近い者が一処だと、二つの心が一つ事を感じてゐると言ふのか、自分の心が連れの心に乗りかゝつて了ふと言ふのか、しんみりした気持ちを持ち合つて行くものである。旅の心が伴ふ危険や煩ひをすつかり、同行者が負担してくれるだけでも、尖つた寂しさではなく、何かかう、円かな寂けさと謂つたものが、心に漂うて居ることが多い。
けれども、芭蕉のやうなえらい人は別だ。我々はやつぱり連れのある旅は、のどかになるに過ぎる。広い野原に立ち停つて、もう旅をやめてしまはうとたまらなくなつて来る気持ちは、苦しいけれども、旅が身に迫つて感ぜられる。さうした心は、此頃、あまり起らなくなつた。よくさうした心持ちは、まう一つ、やゝ大きな暈のやうなものを伴つて起つて来がちであつた。人生に倦んだとでも言へるやうな心持ちである。旅だから、よしも還り入る家はあるが、此が生涯だつたらどうする。こんな事を考へるよりも先に、かう言ふ形をとつて心持ちの上におつかぶさつて来る。旅に出て謂はれなく死んでしまふ人の気が訣る。出来心と人は言ふ。又、いはれなき謂はれを求めようとする理づめの世間になつて来たが、旅の切ないある気持ちは、少数の人とだけは咄しあへさうな気がする。出来心でさへもない。やつぱり旅のみが持たせる負担といふか、たまらない倦さが、人生の倦さに一致してしまふからである。根本は、旅のつらさから来るには違ひない。殊に大きな山を歩…

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