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出帆
しゅっぱん
作品ID160
著者芥川 竜之介
文字遣い新字新仮名
底本 「羅生門・鼻・芋粥」 角川文庫、角川書店
1950(昭和25)年10月20日
初出「新思潮」1916(大正5)年10月
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1999-01-12 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 成瀬君
 君に別れてから、もう一月の余になる。早いものだ。この分では、存外容易に、君と僕らとを隔てる五、六年が、すぎ去ってしまうかもしれない。
 君が横浜を出帆した日、銅鑼が鳴って、見送りに来た連中が、皆、梯子伝いに、船から波止場へおりると、僕はジョオンズといっしょになった。もっとも、さっき甲板ではちょいと姿を見かけたが、その後、君の船室へもサロンへも顔を出さなかったので、僕はもう帰ったのかと思っていた。ところが、先生、僕をつかまえると、大元気で、ここへ来るといつでも旅がしたくなるとか、己も来年かさ来年はアメリカへ行くとか、いろんなことを言う。僕はいいかげんな返事をしながら、はなはだ、煮切らない態度で、お相手をつとめていた。第一、ばかに暑い。それから、胃がしくしく、痛む。とうてい彼のしゃべる英語を、いちいち理解するほど、神経を緊張する気になれない。
 そのうちに、船が動きだした。それも、はなはだ、緩慢な動き方で、船と波止場との間の水が少しずつ幅を広くしていくから、わかるようなものの、さもなければ、ほとんど、動いているとは受取れないくらいである。おまけに、この間の水なるものが、非常にきたない。わらくずやペンキ塗りの木の片が黄緑色に濁った水面を、一面におおっている。どうも、昔、森さんの「桟橋」とかいうもので読んだほど、小説らしくもなんともない。
 麦わら帽子をかぶって、茶の背広を着た君は、扇を持って、こっちをながめていた。それも至極通俗なながめ方である。学校から帰りに、神田をいっしょに散歩して、須田町へ来ると、いつも君は三田行の電車へのり、僕は上野行の電車にのった。そうしてどっちか先へのったほうを、あとにのこされたほうが見送るという習慣があった。今日、船の上にいる君が、波止場をながめるのも、その時とたいした変わりはない。(あるいは僕のほうに、変わりがないせいだろうか)僕は、時々君の方を見ながら、ジョオンズとでたらめな会話をやっていた。彼はクロンプトン・マッケンジイがどうとか言ったかと思うと、ロシアの監獄へは、牢やぶりの器械を売りに来るとかなんとか言う。何をしゃべっているのだか、わからない。ただ、君を見送ってから彼が沼津へ写生にゆくということだけは、何度もきき返してやっとわかった。
 そのうちに、気がついて見ると、船と波止場との距離が、だいぶん遠くなっている。この時、かなり痛切に、君が日本を離れるのだという気がした。皆が、成瀬君万歳と言う。君は扇を動かして、それに答えた。が、僕は中学時代から一度も、大きな声で万歳と言ったことがない。そこで、その時も、ただ、かぶっていた麦わら帽子をぬいで、それを高くさし上げて、パセティックな心もちに順応させた。万歳の声は、容易にやまない。僕は君に、いつか、「燃焼しない」(君のことばをそのまま、使えば)と言って非難されたことを思い出…

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