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僻見
へきけん |
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作品ID | 16033 |
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著者 | 芥川 竜之介 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「芥川龍之介全集 第十一巻」 岩波書店 1996(平成8)年9月9日 |
初出 | 広告、斎藤茂吉「女性改造 第三巻第三号」1924(大正13)年3月1日、岩見重太郎「女性改造 第三巻第四号」1924(大正13)年4月1日、木村巽斎「女性改造 第三巻第八号、第三巻第九号」1924(大正13)年8月1日、9月1日 |
入力者 | もりみつじゅんじ |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2009-01-21 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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この数篇の文章は何人かの人々を論じたものである。いや、それらの人々に対する僕の好悪を示したものである。
この数篇の文章の中に千古の鉄案を求めるのは勿論甚だ危険である。僕は少しも僕の批判の公平を誇らうとは思つてゐない。実際又公平なるものは生憎僕には恵まれてゐない、――と云ふよりも寧ろ恵まれることを潔しとしない美徳である。
この数篇の文章の中に謙譲の精神を求めるのはやはり甚だしい見当違ひである。あらゆる批判の芸術は謙譲の精神と両立しない。就中僕の文章は自負と虚栄心との吸ひ上げポンプである。
この数篇の文章の中に軽佻の態度を求めるのは最も無理解の甚だしいものである。僕は締切り日に間に合ふやうに、匆忙とペンを動かさなければならぬ。かう云ふ事情の下にありながら、しかも軽佻に振舞ひ得るものは大力量の人のあるばかりである。
この数篇の文章は僕の好悪を示す以外に、殆ど取り柄のないものである。唯僕は僕の好悪を出来るだけ正直に示さうとした。もし取り柄に近いものを挙げれば、この自ら偽るの陋を敢てしなかつたことばかりである。
晋書礼記は「正月元会、自獣樽を殿庭に設け、樽蓋上に白獣を施し、若し能く直言を献ずる者あらば、この樽を発して酒を」飲ましめたことを語つてゐる。僕はこの数篇の文章の中に直言即ち僻見を献じた。誰か僕の為に自獣樽を発し一杓の酒を賜ふものはないか? 少くとも僕の僻見に左袒し、僻見の権威を樹立する為に一臂の力を仮すものはないか?
斎藤茂吉
斎藤茂吉を論ずるのは手軽に出来る芸当ではない。少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。なぜと云へば斎藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下してゐるからである。僕は高等学校の生徒だつた頃に偶然「赤光」の初版を読んだ。「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来僕は茂吉と共におたまじやくしの命を愛し、浅茅の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。かう云ふ茂吉を冷静に見るのは僕自身を冷静に見ることである。僕自身を冷静に見ることは、――いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を予想した虚栄心を抱かずにはゐられぬものである。到底行路の人を見るやうに僕自身を見ることなどの出来る筈はない。
僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になつたのでもない。斎藤茂吉にあけて貰つたのである。もう今では十数年以前、戸山の原に近い借家の二階に「赤光」の一巻を読まなかつたとすれば、僕は未だに耳木兎のやうに、大いなる詩歌の日の光をかい間見ることさへ出来なかつたであらう。ハイネ、ヴエルレエン、ホイツトマン、――さう云ふ紅毛の詩人の詩を手あたり次第読んだのもその頃である。が、僕の語学の素養は彼等の内陣へ踏み入るには勿論浅薄を免れなかつた。の…