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ゆめ
作品ID1762
著者萩原 朔太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本の名随筆14 夢」 作品社
1984(昭和59)年1月25日
入力者土屋隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-11-08 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

夢と人生 夢が虚妄に思はれるのは、個々の事件が斷片であり、記憶の連續がないからである。昨日私は、夢の中で借金し、夢の中で怪我をした。しかし朝になつて見れば、借金を返す義務もなく、負傷の跡方さへもないのである。そして今夜の夢は、それと全く別なことを經驗する。だがもしさうでなく、夢が夜毎に連續したらどうであらうか。昨日の夢で怪我をした私は、今夜の夢で病院へ入院し、醫師の治療を受けねばならぬ。そして昨日の夢で借りた金を、今夜の夢で催促され、工面しなければならないのである。
 この場合にあつて、夢はまさしく現實である。即ち人々は、晝間の生活と、睡眠中の生活と、二部の併存した人生を生きねばならぬ。神がもし慈悲深く、衆生の人間に對して平等だつたら、おそらくこの二つの生活は、互に反對のものになるであらう。即ち晝間の生活で幸福であり、樂しく滿悦してゐるところの人々は、夢の中で苦惱多く、不幸な人生を經驗し、その反對の人々は、晝間の生活の代償として、夢の中で幸福な世を送る。そしてすべての人々は、神の公平な攝理の下に、エコヒイキなく平等になる。だがどんな場合にあつても、神は決して公平でない。なぜなら夢は、その人の先天的氣質や體質や、特に健康状態によつて決定されるからである。たとへば神經質の人や、内氣で非社交的な人々や、不健康で病弱の人々や、即ち一口で言へば、生存競爭の劣敗者たる素質を持つた人々は、概して皆苦しい夢、恐ろしい夢、人から苛められるやうな夢ばかり見る。反對に樂天的で陽氣な人々や、社交的で元氣がよく、健康のすぐれた強壯の人々や、即ち素質的に生存競爭の優勝者たる人々は、概して皆樂しい夢、明るい輝いた夢ばかり見る。「富める者は、その持たざる物をも與へられ、貧しき者は、その持つ物をも奪はる」と耶蘇が言つた聖書の言葉は、人生のどんな場合にも眞實である。幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、惡しき星の下に生れた人は、夢の中でさへも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの斷片であり、記憶の連續をもたないこと、その故にまた虚妄であるといふことは、せめてもの恩寵として、神に感謝すべきことであるかも知れない。

夢を支配する自由 阿片やモルヒネの麻醉が、人を樂しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の状態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからである。眞に深く眠つてしまへば、人はもはや意識を失ひ、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならなくなる。しかもその夢は、たいてい願はしくないこと、思ひがけないこと、厭な樂しくもないことばかりである。しかも覺醒している間は、意識が現實の刺激に對して、一々の決定された法則によつて反應するため、一も眞の自由が得られず、人間の精神生活そのものが、物理的法則の支配下に屬してしまふ。精神の眞の自由――自分の意志によ…

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