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夏帽子
なつぼうし
作品ID1765
著者萩原 朔太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆38 装」 作品社
1985(昭和60)年12月25日
入力者土屋隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2006-10-27 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 青年の時は、だれでもつまらないことに熱情をもつものだ。
 その頃、地方の或る高等学校に居た私は、毎年初夏の季節になると、きまつて一つの熱情にとりつかれた。それは何でもないつまらぬことで、或る私の好きな夏帽子を、被つてみたいといふ願ひである。その好きな帽子といふのはパナマ帽でもなくタスカンでもなく、あの海老茶色のリボンを巻いた、一高の夏帽子だつたのだ。
 どうしてそんなにまで、あの学生帽子が好きだつたのか、自分ながらよく解らない。多分私は、その頃愛読した森鴎外氏の『青年』や、夏目漱石氏の学生小説などから一高の学生たちを聯想し、それが初夏の青葉の中で、上野の森などを散歩してゐる、彼等の夏帽子を表象させ、聯想心理に結合した為であらう。
 とにかく私は、あの海老茶色のリボンを考へ、その書生帽子を思ふだけでも、ふしぎになつかしい独逸の戯曲、アルト・ハイデルベルヒを聯想して、夏の青葉にそよいでくる海の郷愁を感じたりした。
 その頃私の居た地方の高等学校では、真紅色のリボンに二本の白線を入れた帽子を、一高に準じて制定して居た。私はそれが厭だつたので、白線の上に赤インキを塗りつけたり、真紅色の上に紫絵具をこすつたりして、無理に一高の帽子に紛らして居た。だがたうとう、熱情が押へがたくなつて来たので、或夏の休暇に上京して、本郷の帽子屋から、一高の制定帽子を買つてしまつた。
 しかしそれを買つた後では、つまらない悔恨にくやまされた。そんなものを買つたところで、実際の一高生徒でもない自分が、まさか気恥しく、被つて歩くわけにも行かなかつたから。
 私は人の居ないところで、どこか内証に帽子を被り、鴎外博士の『青年』やハイデルベルヒを聯想しつつ、自分がその主人公である如く、空想裡の悦楽に耽りたいと考へた。その強い欲情は、どうしても押へることができなかつた。そこで、或夏、七月の休暇になると同時に、ひそかに帽子を行李に入れて、日光の山奥にある中禅寺の避暑地へ行つた。もちろん宿屋は、湖畔のレーキホテルを選定した。それは私の空想裡に住む人物としても、当然選定さるべきの旅館であつた。
 或日私は、附近の小さな滝を見ようとして、一人で夏の山道を登つて行つた。七月初旬の日光は、青葉の葉影で明るくきらきらと輝やいて居た。
 私は宿を出る時から、思ひ切つて行李の中の帽子を被つて居た。こんな寂しい山道では、もちろんだれも見る人がなく、気恥しい思ひなしに、勝手な空想に耽れると思つたからだ。夏の山道には、いろいろな白い花が咲いて居た。私は書生袴に帽子を被り、汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の肩を高く怒らし、独逸学生の青春気質を表象する、あの浪漫的の豪壮を感じつつ歩いて居た。懐中には丸善で買つたばかりの、なつかしいハイネの詩集が這入つて居た。その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に凋れた草花などが押されて…

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