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魚河岸
うおがし
作品ID177
著者芥川 竜之介
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集5」 ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日
初出「婦人公論」1922(大正11)年8月
入力者j.utiyama
校正者もりみつじゅんじ
公開 / 更新1998-12-28 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 去年の春の夜、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴、洋画家の風中、蒔画師の如丹、――三人とも本名は明さないが、その道では知られた腕っ扱きである。殊に露柴は年かさでもあり、新傾向の俳人としては、夙に名を馳せた男だった。
 我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸、如丹は名代の酒豪だったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴はどうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、腥い月明りの吹かれる通りを、日本橋の方へ歩いて行った。
 露柴は生っ粋の江戸っ児だった。曾祖父は蜀山や文晁と交遊の厚かった人である。家も河岸の丸清と云えば、あの界隈では知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷の露路の奥に、句と書と篆刻とを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質よりは伝法な、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪の鮨と、一味相通ずる何物かがあった。………
 露柴はさも邪魔そうに、時々外套の袖をはねながら、快活に我々と話し続けた。如丹は静かに笑い笑い、話の相槌を打っていた。その内に我々はいつのまにか、河岸の取つきへ来てしまった。このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。
 店の中には客が二人、細長い卓に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰った。それから平貝のフライを肴に、ちびちび正宗を嘗め始めた。勿論下戸の風中や保吉は二つと猪口は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々健啖だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽を阿弥陀にしたまま、如丹と献酬を重ねては、不相変快活にしゃべっていた。
 するとその最中に、中折帽をかぶった客が一人、ぬっと暖簾をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟に肥った頬を埋めながら、見ると云うよりは、睨むように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言の挨拶もせず、…

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