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古代人の思考の基礎
こだいじんのしこうのきそ |
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作品ID | 18397 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 3」 中央公論社 1995年4月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 多羅尾伴内 |
公開 / 更新 | 2006-05-16 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 58 ページ(500字/頁で計算) |
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一 尊貴族と神道との関係
尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。
平安朝頃までは、天皇の御一族のことを王氏と言ひ、其に対して、皇族以下の家を、他氏と言うてゐた。奈良朝から、王氏・他氏の対立が著しくなつた。正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の皇后があつたことの回顧が、必要である。
尊貴族と、同じ様な生活をしてゐた、国々或は村々に於ても、其と、大同小異の信仰が、行はれてゐた。又その間、かなり違つた信仰もあつたであらうが、其等は、事大主義から、おのづから、尊貴族の信仰に従うて来た。中には、意識して変へた事実もある。其は、近江・飛鳥・藤原の時代を通じて見られる。かの大化改新の根本精神は、実は宗教改革であつて、地方の信仰を、尊貴族の信仰に統一しよう、とした所にあつた。奈良朝から平安朝にかけては、王族中心の時代になりかゝつてゐたが、此頃になると、もう王氏を脇に見て、他氏が、勢力を得て来てゐる。それで尊貴族は、竟に表面に現れないで、他氏が力を振ふやうになつた。
話を単純にする為に、例をあげると、毎年正月十五日頃行はれる御歌会始めは、今では、神聖なといふより、尊い文学行事になつてゐるが、平安朝末頃の記録を見ると、固定して来てはゐるが、まだ神聖な宗教的儀式であつた。其習慣は、平安朝を溯つて、奈良朝より、更に以前から、あつたものと思はれる。
この神聖な宗教上の儀式である御歌会は、元は、男女が両側に分れて、献詠したものであらう。天皇が御製をお示しになる時は、女房が簾越しに出す事になつてゐた。この形式の一分化として、平安朝から鎌倉時代へかけて、屡行はれた歌合せの場合にも、其習慣から、天皇・上皇の御歌は、女房名を用ゐて、示されてゐる。宮廷の生活をうつした、貴族の家で行はれた歌合せには、其家の主人が、女房といふ名を用ゐた。大鏡を見ても訣る。後鳥羽院は、歴代の天皇の中で、最すぐれた歌の上手であらせられたが、皆、女房と言ふ名で、歌合せをなさつてゐた。
今でも、御歌会の時には、召人が召されるが、昔は、此召人と言ふものは、大抵武官出であつた。貴族の子弟のなつてゐる武官ではなくして、五位以下の、多くは地下のものであつた。即、位の低い武官が召された。平安朝末から鎌倉へかけて、武官出の名高い歌人の出てゐるのは、即、この習慣の熟したものである。譬へば、源三位頼政・佐藤義清(西行)及び、後鳥羽院の時の藤原能任等の人々が、其である。
召人として召され…