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だいがくの研究
だいがくのけんきゅう
作品ID18401
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 2」 中央公論社
1995(平成7)年3月10日
初出「土俗と伝説 第一巻第一・三号」1918(大正7)年8、10月
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2007-06-15 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

夏祭浪花鑑の長町裏の場で、院本には「折から聞える太鼓鉦」とあるばかりなのを、芝居では、酸鼻な舅殺しの最中に、背景の町屋の屋根の上を、幾つかの祭礼の立て物の末が列つて通る。あれが、だいがくと言ふ物なのである。尤、東京では、普通の山車を見せる事になつて居る様であるが、此は適当な飜訳と言ふべきであらう。
一昨年実川延二郎が本郷座で団七九郎兵衛を出した時は、万事大阪の型どほりで、山車をやめて、だいがくを見せたとか聞いて居る。一体此立て物は、大阪の町に接近した村々では、夏祭り毎に必出した物であつたが、日清役以後段々出なくなつて、最後に木津(南区木津)の分が、明治三十七八年戦争の終へた年に出たぎり、今では悉皆泯びて了うて居る。
此処には木津のだいがくの事を書いておく。だいがくの出来初めは、知れて居ない。唯老人たちは、台の上に額を載せて舁ぎ廻つたのが、原始的のもので、名称も其に基いて居るといふ。けれども今も豊能郡熊野田村の祭礼に舁ぐがく(額)と言ふ立て物と比べて見ると、或は大額の義かと思はれぬでもない。其後進歩して、台の上に経棒を竪て、一人持提灯一つ、ひげこ(第一図)額などを備へた形になつて来たのだと言ふが、恐らく、経棒は最初からあつた物で、額だけがぽつつり乗つて居たのではなからう。
別図の[#図省略]様な態を備へる事になつたのは、今から六十年程の前の事で、其以前は天幕の代りにひげこが使はれて居たのである。ひげこは、必、二重ときまつて居たさうである。明治三十年頃までは、西成郡勝間村・東成郡田辺村などには、ひげこのだいがくを舁いで居るのを見かけたものである。
一体ひげこは日の子の音転で、太陽神の姿を模したのだ、と老人たちは伝へて居るが、恐らくは、竪棒の上に、髯籠の飾りをとりつけて居たのが、段々意匠化せられて出来た(髯籠の話参照)ものか。今日なほ紀州粉河の祭礼の屋台には、髯籠を高くとりつける。のみならず、国旗の尖にもつけ、五月幟の頂にもつける事がある。竿頭を繖形に殺ぎ竹を垂して、紙花をつける事は、到る処の神事や葬式の立て物にある事である。
但し今一つ考へに入れて置かねばならぬのは、傘鉾の形式で、此は竿と笠とだしとの三つの要素で出来て居る事である。一体傘鉾は、力持ちが手で捧げながら練つたものであるが、此が非常に発達した場合には、[#挿絵]に樹てゝ舁くか、車に乗せて曳き歩くより外に道はなくなる訣である。
だいがくの成立した形は、前者である。尚老人たちは、だいがくに数多の提灯をとりつける様になつた起りを、ある年の住吉祭り(大阪中の祭礼として、夏祭りの一番終りに行はれる)に、住吉まで出向いただいがくが、帰り途になつて日の暮れた為、臨時に緯棒を括りつけて、其に提灯を列ねた時からだと説いて居る。
其はともかく、住吉祭りといふ事が、だいがくと住吉踊りの傘鉾との関係を見せて居る様に思はれる。…

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