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古代生活の研究
こだいせいかつのけんきゅう
作品ID18413
副題常世の国
とこよのくに
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 2」 中央公論社
1995(平成7)年3月10日
初出「改造 第七巻第四号」1925(大正14)年4月
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2006-04-11 / 2014-09-18
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一 生活の古典

明治中葉の「開化」の生活が後ずさりをして、今のあり様に落ちついたのには、訣がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思はれる様式の、由来不明なる「為来り」によつて、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与へる。門松を樹てた後の心持ちのやすらひを考へて見ればよい。日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の歓び――下笑ましさとでも言ふか――の度が違ふ。所謂「異教」の国人の私どもには、何の掛り合ひもないくりすますの宵の燈に、胸の躍るを感じるのは、古風な生活の誘惑に過ぎまい。
くりすますの木も、さんた・くろうすも、実はやはり、昔の耶蘇教徒が異教の人々の「生活の古典」のみやびやかさを見棄てる気になれないで、とり込んだものであつたのである。家庭生活・郷党生活に「しきたり」を重んずる心は、近代では著しく美的に傾いてゐる。大隅の海村から出た会社員の亭主と、磐城の山奥から来た女学生あがりの女房との新家庭には、どんな春が迎へられてゐるだらう。東京様を土台にして、女夫双方のほのかな記憶を入りまじへた正月の祝儀が行はれてゐるに違ひない。さうした寂しい初春にも、やすらひと下ゑましさとが、家の気分をずつと古風にしてゐることゝ思ふ。
生活の古典なるしきたりが、新しい郷党生活にそぐはない場合が多い。度々の申し合せで、其改良を企てゝも、やはり不便な旧様式の方に綟りを戻しがちなのは、其中から「美」を感じようとする近世風よりは、更に古く、ある「善」――尠くとも旧文化の勢力の残つた郷党生活では――を認めてゐるからである。此「善」の自信が出て来たのは、辿れば辿る程、神の信仰に根ざしのある事が顕れて来る。
数年前「東」の門徒が、此までかた門徒連のやつた宗風のすたれるのを歎いて「雑行雑修をふりすてゝ」と言ふ遺誡をふりかざして、門松標め縄を廃止にしようとした時は、一騒動があつた。攻撃した人達も「年飾り」をやめる事が、国人としての気分の稀薄になつた証拠だといふ論拠を深く示さうとしなかつた。唯漠然と道徳的でない感じがしたと言ふ程の処にあつた様である。処があれなどは、神道家がもつと考へて見なければならない古義神道、或は「神道以前」の考察を疎かにしてゐた証拠になるのである。陰陽神道・両部神道・儒教的神道・衛生神道・常識神道などに安住して、自由に古代研究をせなかつた為である。
古代研究家の思ひを凝さねばならぬのは、私どもの祖先からくり返して来た由来不明のしきたりが、時にはさうした倫理内容まで持つて来た訣についてゞある。言ふまでもない。神に奉仕するものゝ頼りと、あやまちを罪と観ずる心持ちである。此が信仰から出てゐるものと見ないで、何と言はう。
神道家の神道論にもいろ/\ある。私…

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