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蜜柑
みかん
作品ID24453
著者芥川 竜之介
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代日本文學全集 第三十篇 芥川龍之介集」 改造社
1928(昭和3)年1月9日
初出「新潮」1919(大正8)年5月1日
入力者高柳典子
校正者岡山勝美
公開 / 更新2012-03-21 / 2021-06-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乘客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍らしく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時時悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲勞と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポケットへぢつと兩手をつつこんだ儘、そこにはひつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元氣さへ起らなかつた。
 が、やがて發車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る聲と共に、私の乘つてゐる二等室の戸ががらりと開いて十三四の小娘が一人、慌しく中へはひつて來た。と同時に一つづしりと搖れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラットフォオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の禮を云つてゐる赤帽――さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、卷煙草に火をつけながら、始て懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顏を一瞥した。
 それは油氣のない髮をひつつめの銀杏返しに結つて、横なでの痕のある皸だらけの兩頬を氣持の惡い程赤く火照らせた、如何にも田舍者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛絲の襟卷がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜燒けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顏だちを好まなかつた。それから彼女の服裝が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との區別さへも辨へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから卷煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に變つて、刷の惡い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで來た。云ふ迄もなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはひつたのである。
 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく世間は餘りに平凡な出來事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦、新郎、涜職事件、死亡廣告――私は隧道へはひつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覺を感じながら、それらの索漠とした記事から記事…

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