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薬草取
やくそうとり |
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作品ID | 3312 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「鏡花短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1987(昭和62)年9月16日 |
初出 | 「二六新報」1903(明治36年)5月16~30日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2001-12-22 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 39 ページ(500字/頁で計算) |
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一
日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬
其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬艸 大小諸樹
「もし憚ながらお布施申しましょう。」
背後から呼ぶ優しい声に、医王山の半腹、樹木の鬱葱たる中を出でて、ふと夜の明けたように、空澄み、気清く、時しも夏の初を、秋見る昼の月の如く、前途遥なる高峰の上に日輪を仰いだ高坂は、愕然として振返った。
人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わぬまで、遠く里を離れて、はや山深く入っていたのに、呼懸けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直に何ら害心のない者であることを認め得た。
女は片手拝みに、白い指尖を唇にあてて、俯向いて経を聞きつつ、布施をしようというのであるから、
「否、私は出家じゃありません。」
と事もなげに辞退しながら、立停って、女のその雪のような耳許から、下膨れの頬に掛けて、柔に、濃い浅葱の紐を結んだのが、露の朝顔の色を宿して、加賀笠という、縁の深いので眉を隠した、背には花籠、脚に脚絆、身軽に扮装ったが、艶麗な姿を眺めた。
かなたは笠の下から見透すが如くにして、
「これは失礼なことを申しました。お姿は些ともそうらしくはございませんが、結構な御経をお読みなさいますから、私は、あの、御出家ではございませんでも、御修行者でいらっしゃいましょうと存じまして。」
背広の服で、足拵えして、帽を真深に、風呂敷包を小さく西行背負というのにしている。彼は名を光行とて、医科大学の学生である。
時に、妙法蓮華経薬草諭品、第五偈の半を開いたのを左の掌に捧げていたが、右手に支いた力杖を小脇に掻上げ、
「そりゃまあ、修行者は修行者だが、まだ全然素人で、どうして御布施を戴くようなものじゃない。
読方だって、何だ、大概、大学朱熹章句で行くんだから、尊い御経を勿体ないが、この山には薬の草が多いから、気の所為か知らん。麓からこうやって一里ばかりも来たかと思うと、風も清々しい薬の香がして、何となく身に染むから、心願があって近頃から読み覚えたのを、誦えながら歩行いているんだ。」
かく打明けるのが、この際自他のためと思ったから、高坂は親しく先ず語って、さて、
「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。」
「はい、二俣村でございます。」
「あああの、越中の蛎波へ通う街道で、此処に来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処だね。」
「さようでございます。もう路が悪うございまして、車が通りませんものですから、炭でも薪でも、残らず馬に附けて出しますのでございます。
それに丁どこの御山の石の門のようになっております、戸室口から石を切出しますのを、皆馬で運びますから、一人で五疋も曳きますのでございますよ。」
「それではその麓から来たんだね、唯一人。……」
静に歩を移して…