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貝の穴に河童の居る事
かいのあなにかっぱのいること
作品ID3315
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「泉鏡花集成8」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日
初出「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房、1931(昭和6)年9月
入力者本山智子
校正者門田裕志
公開 / 更新2001-07-19 / 2014-09-17
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。……
 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を潜って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽われたのに、雲の影が映って暗い。
 縦横に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜りの田と、荒れた畠だから――農屋漁宿、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔が時になろうとする。
 町屋の屋根に隠れつつ、巽に展けて海がある。その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように、ぼろを膚に、笠も被らず、一本杖の細いのに、しがみつくように縋った。杖の尖が、肩を抽いて、頭の上へ突出ている、うしろ向のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。小児だか、侏儒だか、小男だか。ただ船虫の影の拡ったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。……
 しょぼけ返って、蠢くたびに、啾々と陰気に幽な音がする。腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。
「しいッ、」
「やあ、」
 しッ、しッ、しッ。
 曳声を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒を差荷いに、漁夫の、半裸体の、がッしりした壮佼が二人、真中に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄で、尾はほとんど地摺である。しかも、もりで撃った生々しい裂傷の、肉のはぜて、真向、腮、鰭の下から、たらたらと流るる鮮血が、雨路に滴って、草に赤い。
 私は話の中のこの魚を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大鮪か、鮫、鱶でないと、ちょっとその巨大さと凄じさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観るに過ぎぬ。実は石投魚である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞しい人間ほどはあろう。荒海の巌礁に棲み、鱗鋭く、面顰んで、鰭が硬い。と見ると鯱に似て、彼が城の天守に金銀を鎧った諸侯なるに対して、これは赤合羽を絡った下郎が、蒼黒い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
 かばかりの大石投魚の、さて価値といえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで…

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