えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
小春の狐
こはるのきつね |
|
作品ID | 3551 |
---|---|
著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「泉鏡花集成7」 ちくま文庫、筑摩書房 1995(平成7)年12月4日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 今井忠夫 |
公開 / 更新 | 2003-09-10 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……
いい天気で、暖かかったけれども、北国の事だから、厚い外套にくるまって、そして温泉宿を出た。
戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。
横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え、艫が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚の音を聞け。印半纏の威勢のいいのでなく、田船を漕ぐお百姓らしい、もっさりとした布子のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚が、一面の湖の北の天なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、
「これは三保の松原に、伯良と申す漁夫にて候。万里の好山に雲忽ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」
と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。
脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。
「これなる松にうつくしき衣掛れり、寄りて見れば色香妙にして……」
と謡っている。木納屋の傍は菜畑で、真中に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐に青貝ほどの小朝顔が縋って咲いて、つるの下に朝霜の焚火の残ったような鶏頭が幽に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信を投げた、玉章のように見えた。
里はもみじにまだ早い。
露地が、遠目鏡を覗く状に扇形に展けて視められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱すようで、近く歩を入るるには惜いほどだったから……
私は――
(これは城崎関弥と言う、筆者の友だちが話したのである。)
――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。
小店の障子に貼紙して、
(今日より昆布まきあり候。)
……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊に柿が並べてある。これなら袂にも入ろう。「あり候」に挨拶の心得で、
「おかみさん、この柿は……」
天井裏の蕃椒は真赤だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、
「その柿かね。へい、食べられましない。」
「はあ?」
「ま…