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![]() こんにゃくぼん |
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作品ID | 3654 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「泉鏡花集成6」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年3月21日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 高柳典子 |
公開 / 更新 | 2007-03-28 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 31 ページ(500字/頁で計算) |
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一
如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟りの吹雪に戸を鎖して、冬籠る頃ながら――東京もまた砂埃の戦を避けて、家ごとに穴籠りする思い。
意気な小家に流連の朝の手水にも、砂利を含んで、じりりとする。
羽目も天井も乾いて燥いで、煤の引火奴に礫が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そこもかしこも、放火だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。
三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。
この七の日は、番町の大銀杏とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢も大童に乱れて蓬々しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。
堂とは一町ばかり間をおいた、この樹の許から、桜草、菫、山吹、植木屋の路を開き初めて、長閑に春めく蝶々簪、娘たちの宵出の姿。酸漿屋の店から灯が点れて、絵草紙屋、小間物店の、夜の錦に、紅を織り込む賑となった。
が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓が遠霞で露店の灯の映るのも、花の使と視めあえず、遠火で焙らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂の前も寂寞としたのである。
提灯もやがて消えた。
ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。
びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが…