えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
灯明之巻
とうみょうのまき |
|
作品ID | 3659 |
---|---|
著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「泉鏡花集成9」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年6月24日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2006-05-04 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 48 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
「やあ、やまかがしや蝮が居るぞう、あっけえやつだ、気をつけさっせえ。」
「ええ。」
何と、足許の草へ鎌首が出たように、立すくみになったのは、薩摩絣の単衣、藍鼠無地の絽の羽織で、身軽に出立った、都会かららしい、旅の客。――近頃は、東京でも地方でも、まだ時季が早いのに、慌てもののせいか、それとも値段が安いためか、道中の晴の麦稈帽。これが真新しいので、ざっと、年よりは少く見える、そのかわりどことなく人体に貫目のないのが、吃驚した息もつかず、声を継いで、
「驚いたなあ、蝮は弱ったなあ。」
と帽子の鍔を――薄曇りで、空は一面に陰気なかわりに、まぶしくない――仰向けに崖の上を仰いで、いま野良声を放った、崖縁にのそりと突立つ、七十余りの爺さんを視ながら、蝮は弱ったな、と弱った。が、実は蛇ばかりか、蜥蜴でも百足でも、怯えそうな、据らない腰つきで、
「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」
「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」
「お爺さん、おい、お爺さん。」
「あんだなし。」
と、谷へ返答だまを打込みながら、鼻から煙を吹上げる。
「煙草銭ぐらい心得るよ、煙草銭を。だからここまで下りて来て、草生の中を連戻してくれないか。またこの荒墓……」
と云いかけて、
「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」
「ははははは。」
鼻のさきに漂う煙が、その頸窪のあたりに、古寺の破廂を、なめくじのように這った。
「弱え人だあ。」
「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」
「はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっす。」
と両つ提の――もうこの頃では、山の爺が喫む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附の処を、独鈷のように振りながら、煙管を手弄りつつ、ぶらりと降りたが、股引の足拵えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。
「いや、御苦労。」
と一基の石塔の前に立並んだ、双方、膝の隠れるほど草深い。
実際、この卵塔場は荒れていた。三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭一つあるのでなく、折朽ちた古卒都婆は、黍殻同然に薙伏して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草がくれなる上に、積った落葉に埋れている。青芒の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空に、離れ島かと流れている。
割合に土が乾いていればこそで――昨日は雨だったし――もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がない…