えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
神鷺之巻
しんろのまき |
|
作品ID | 3660 |
---|---|
著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「泉鏡花集成9」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年6月24日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2006-05-04 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 55 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
白鷺明神の祠へ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕わした。
この爺さんは、
「――おらが口で、更めていうではねえがなす、内の媼は、へい一通りならねえ巫女でがすで。」……
若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫を片手間に、小賭博なども遣るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
またその媼巫女の、巫術の修煉の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺の、見る影もなく荒涼んだ乱塔場で偶然知己になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡から、ここに准胝観世音の御堂に詣でた。
いま、その御廚子の前に、わずかに二三畳の破畳の上に居るのである。
さながら野晒の肋骨を組合わせたように、曝れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行くだけでさえ、清浄と斎戒がなければならぬ。奥の大巌の中腹に、祠が立って、恭しく斎き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効はあるまい……と行くのを留めたそうな口吻であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓きがごとく、そして御髪が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴は、白とも、緋ともいうが、夜の花の朧と思え。……
どの道、巌の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏に観世音を念じて、彼処の面影を偲べばよかろう。
爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡へ、銑吉を上らせまいとするのである。
第一可恐いのは、明神の拝殿の蔀うち、すぐの承塵に、いつの昔に奉納したのか薙刀が一振かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味の鋭さは、月の影に…