えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
縁結び
えんむすび |
|
作品ID | 3664 |
---|---|
著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「ちくま日本文学全集 泉鏡花」 筑摩書房 1991(平成3年)10月20日 |
入力者 | 牡蠣右衛門 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2001-10-19 / 2018-03-07 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一
襖を開けて、旅館の女中が、
「旦那、」
と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。
「用かい。」
とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込んだ証拠に、襦袢も羽織も床の間を辷って、坐蒲団の傍まで散々のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐で火鉢に頬杖して、当日の東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝のほど、昨日のその講演会の帰途のほども量られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威して甲走る。
吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら可笑がる。
謙造は一向真面目で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と眉を顰める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜あんなに晩うくお帰りなさいました癖に、」
「いや、」
と謙造は片頬を撫でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと躾めるように言うと、一層頬辺の色を濃くして、ますます気勢込んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と厭な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然川柳で折紙つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良い香い、何て香水を召したんでございます。フン、」
といい方が仰山なのに、こっちもつい釣込まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と一際首を突込みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば…