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野人生計事
やじんせいけいごと |
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作品ID | 3743 |
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著者 | 芥川 竜之介 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」 筑摩書房 1971(昭和46)年6月5日 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2007-08-09 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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一 清閑
「乱山堆裡結茅蘆 已共紅塵跡漸疎
莫問野人生計事 窓前流水枕前書」
とは少時漢詩なるものを作らせられた時度たびお手本の役をつとめた李九齢の七絶である。今は子供心に感心したほど、名詩とも何とも思つてゐない。乱山堆裡に茅蘆を結んでゐても、恩給証書に貯金の通帳位は持つてゐたのだらうと思つてゐる。
しかし兎に角李九齢は窓前の流水と枕前の書とに悠悠たる清閑を領してゐる。その点は甚だ羨ましい。僕などは売文に餬口する為に年中[#挿絵]忙たる思ひをしてゐる。ゆうべも二時頃まで原稿を書き、やつと床へはひつたと思つたら、今度は電報に叩き起された。社命、僕にサンデイ毎日の随筆を書けと云ふ電報である。
随筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である。古来の文人多しと雖も、未だ清閑さへ得ないうちに随筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人は(この今人と云ふ言葉は非常に狭い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)清閑を得ずにもさつさと随筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。寧ろ清閑を得ない為に手つとり早い随筆を書き飛ばすのである。
在来の随筆は四種類である。或はもつとあるかも知れない。が、ゆうべ五時間しか寝ない現在の僕の頭によると、第一は感慨を述べたものである。第二は異聞を録したものである。第三は考証を試みたものである。第四は芸術的小品である。かう云ふ四種類の随筆にレエゾン・デエトルを持たないと云ふものは滅多にない。感慨は兎に角思想を含んでゐる。異聞も異聞と云ふ以上は興味のあることに違ひない。考証も学問を借りない限り、手のつけられないのは確である。芸術的小品も――芸術的小品は問ふを待たない。
しかしかう云ふ随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗に書けるものではない。是に於て乎、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは何であるか? 掛け値なしに筆に随つたものである。純乎として純なる出たらめである。
もし僕の言葉を疑ふならば、古人の随筆は姑く問はず、まづ観潮楼偶記を読み或は断腸亭雑[#挿絵]を読み、次に月月の雑誌に出る随筆の大半と比べて見るがよい。後者の孟浪杜撰なることは忽ち瞭然となるであらう。しかもこの新らしい随筆の作者は必しも庸愚の材ばかりではない。ちやんとした戯曲や小説の書ける(一例を挙げれば僕の如き)相当の才人もまじつてゐるのである。
随筆を清閑の所産とすれば、清閑は金の所産である。だから清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越しなければならない。これはどちらも絶望である。すると新しい随筆以外に、ほんものの随筆の生れるのもやはり絶望といふ外はない。
李九齢は「莫問野人生計事」といつた。しかし僕は随筆を論ずるにも、清…