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処女時代の追憶
しょじょじだいのついおく
作品ID4065
副題断片三種
だんぺんさんしゅ
著者岡本 かの子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻86 少女」 作品社
1998(平成10)年4月25日
入力者門田裕志
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-12-12 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     ○
 処女時代の私は、兄と非常に密接して居ました。兄に就いていろいろの思ひ出があります。十六七の時でした、何でも秋の末だと思ひます。子供のうちから歌や文章を好んで居た私を、やはり文学者として立つつもりで高等学校に居た兄が、新詩社の與謝野晶子夫人の処へつれて行つて呉れました。その頃新詩社からは今の明星の前身のやはり明星といふ大な詩歌雑誌が出て居ました。兄は私をつれて行くよりずつと前に新詩社に入り、歌や詩を明星に出して居りました。よく晴れた日でした、高く澄み上つた空の下に、枯草の道がながく続いて居ました。千駄ヶ谷の鉄道線路を挟んだ低い堤だつたと覚えて居ます。イナゴがしきりにとんでところどころに、枯れのこつた露草の花が、小さくかぢかんで咲いて居ました。これから連れて行く新詩社がその何丁くらひ先きにあるのか與謝野夫人がどんな方であるか、私はその想像で胸が一ぱいでした。が、無口な兄は、何にも云つて聞かせませんでした。唯カスリの袷にキチンと袴を穿いて、少しよごれた一高の制帽の白線が色の黒い兄の丸顔と可愛らしく対照して居ました。新詩社は新宿よりの千駄ヶ谷の畑中の極々質素な平家でありました。兄のうしろに肩揚をしてお下げに髪を結つた私は、かくれるやうに座りました。私達は家の真中の広間――今強いて云へば応接間でしようか――に晶子夫人をお待ちして居りました。
 離れの障子の開く音がして、ひたひた板廊下をふむ柔かい足音がしました――丈の高い色の真白な晶子夫人が、私達の前へ現はれました。髪を無造作に巻いて、青つぽい絣の袷にあつさりした秋草模様のメリンスの帯。広い額が貝のやうになめらかでちいさい、しかし熱情的なそして理智に光る眼――前歯がかけて居るせいか口を利きにくさうに、でもはきはきと何か云はれるところが、優しいうちにも凛として居られました。その全体からうける清楚とした感じは、とても後年の濃艶な扮装の夫人から想像することはむづかしい。
 狭い明るい庭に霜にいたんだ黄菊白菊が乱雑に咲いて居るのがかへつて趣ある風情だつたと覚えて居ます。
     ○
 平生無口な兄が時々おそろしく能弁になりました。何か一つの問題に捉へられるとそれからなかなか解放されない性質でした。感情家だつたからでせう。そんな時、相手の立場はあまり兄には考へられない一種の愛すべき利己主義と兄はなるのでありました。
「ねえ、君、そふだらう、神が全能の力を持つならば、何故、その力をはたらかしてこの世の悪を立ちどころに一掃しないんだ。この疑問が解決されないうちは僕はやつぱり神の存在なるものを全々信じ切ることは出来ないんだ。」
 斯ふ云ひ終つて苦しげに兄は溜息をつきました。兄はその頃、詩歌小説にふけりすぎて神経衰弱になつた結果、或友人の深切に誘はれて、キリスト教信者となりかけて居ました。内気な兄は、教会の牧師に面と向…

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