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山の手小景
やまのてしょうけい
作品ID4149
著者泉 鏡花
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鏡花全集 巻二十七」 岩波書店
1942(昭和17)年10月20日
入力者門田裕志
校正者米田進
公開 / 更新2002-05-20 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      矢來町

「お美津、おい、一寸、あれ見い。」と肩を擦合はせて居る細君を呼んだ。旦那、其の夜の出と謂ふは、黄な縞の銘仙の袷に白縮緬の帶、下にフランネルの襯衣、これを長襦袢位に心得て居る人だから、けば/\しく一着して、羽織は着ず、洋杖をついて、紺足袋、山高帽を頂いて居る、脊の高い人物。
「何ですか。」
 と一寸横顏を旦那の方に振向けて、直ぐに返事をした。此の細君が、恁う又直ちに良人の口に應じたのは、蓋し珍しいので。……西洋の諺にも、能辯は銀の如く、沈默は金の如しとある。
 然れば、神樂坂へ行きがけに、前刻郵便局の前あたりで、水入らずの夫婦が散歩に出たのに、餘り話がないから、
(美津、下駄を買うてやるか。)と言つて見たが、默つて返事をしなかつた。貞淑なる細君は、其の品位を保つこと、恰も大籬の遊女の如く、廊下で會話を交へるのは、仂ないと思つたのであらう。
(あゝん、此のさきの下駄屋の方が可か、お前好な處で買へ、あゝん。)と念を入れて見たが、矢張默つて、爾時は、おなじ横顏を一寸背けて、あらぬ處を見た。
 丁度左側を、二十ばかりの色の白い男が通つた。旦那は稍濁つた聲の調子高に、
(あゝん、何うぢや。)
(嫌ですことねえ、)と何とも着かぬことを謂つたのであるが、其間の消息自ら神契默會。
(にやけた奴ぢや、國賊ちゆう!)と快げに、小指の尖ほどな黒子のある平な小鼻を蠢かしたのである。謂ふまでもないが、此のほくろは極めて僥倖に半は髯にかくれて居るので。さて銀側の懷中時計は、散策の際も身を放さず、件の帶に卷着けてあるのだから、時は自分にも明かであらう、前に郵便局の前を通つたのが六時三十分で、歸り途に通懸つたのが、十一時少々過ぎて居た。
 夏の初めではあるけれども、夜の此の時分に成ると薄ら寒いのに、細君の出は縞のフランネルに絲織の羽織、素足に蹈臺を俯着けて居る、語を換へて謂へば、高い駒下駄を穿いたので、悉しく言へば泥ぽツくり。旦那が役所へ通ふ靴の尖は輝いて居るけれども、細君の他所行の穿物は、むさくるしいほど泥塗れであるが、惟ふに玄關番の學僕が、悲憤慷慨の士で、女の足につけるものを打棄つて置くのであらう。
 其の穿物が重いために、細君の足の運び敏活ならず。が其の所爲で散策に恁る長時間を費したのではない。
 最も神樂坂を歩行くのは、細君の身に取つて、些とも樂みなことはなかつた。既に日の内におさんを連れて、其の折は、二枚袷に長襦袢、小紋縮緬三ツ紋の羽織で、白足袋。何のためか深張傘をさして、一度、やすもの賣の肴屋へ、お總菜の鰡を買ひに出たから。

      茗荷谷

「おう、苺だ苺だ、飛切の苺だい、負つた負つた。」
 小石川茗荷谷から臺町へ上らうとする爪先上り。兩側に大藪があるから、俗に暗がり坂と稱へる位、竹の葉の空を鎖して眞暗な中から、烏瓜の花が一面に、白い星のやうな瓣を吐…

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