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過去世
かこぜ |
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作品ID | 4175 |
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著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会 1992(平成4)年1月23日 |
初出 | 「文芸」1937(昭和12)年7月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 湯地光弘 |
公開 / 更新 | 2004-02-24 / 2016-01-16 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青蘆の洲とは、両脇から錆び込む腐蝕のやうに黝んで来た。
窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿は妖しく美しかつた。格幅のいゝ身体に豊かに着こなした明石の着物、面高で眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつた栗色に見えた。古墳の中の空気をゼリーで凝らして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もう灯をともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨の蛍見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩餐のコースを捗らせて行つた。だん/\募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうに煌めいた。
女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良人に連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込む遽しいかの女に、埠頭でぱつたり出遭つて、僅かにお互に手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残して訣れてしまつた。
二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識に疎いところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含羞やでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼母しく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年も経つたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋で返されて来た。
ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越し、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。
淡い甘さの澱粉質の匂ひに、松脂と蘭花を混ぜたやうな熱帯的な芳香が私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。
「アテチヨコですの?」
「お好き?」
「えゝ。でも、レストラントでなくて素人のおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」
「素人ぢやございませんわ。店の司厨長を呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」
「わざ/\、まあ、恐れ入りました」
「私、最近に下町で瀟洒なレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」
女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉れ、程よく食塩と辛子を落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥ぎ、剥げ根にちよつぽり塊つてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮き取ることにこど…