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![]() こうもり |
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作品ID | 4178 |
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著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会 1992(平成4)年1月23日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 湯地光弘 |
公開 / 更新 | 2005-03-24 / 2016-01-16 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
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それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。
これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶で鮎を汲むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉や鮒や金魚なら、井戸替へのとき、底水を浚ひ上げる桶の中によく発見された。これらは井の底にわく虫を食べさすために、わざと入れて置くさかなであつた。「ばけつ持つてお出で」井戸替への職人の親方はさう云つて、ずらりと顔を並べてゐる子供達の中で、特にお涌をめざして、それ等のさかなの中の小さい幾つかを呉れた。お涌は誰の目にもつきやすく親しまれるたちの女の子であつた。
夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねば/\してゐる流し場を草履で踏み乍ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
蝙蝠来い
簑着て来い
行燈の油に火を持つて来い
……………………
仲間の子供たちが声を揃へて喚き出したので、お涌も井戸端から離れた。
空は、西の屋根瓦の並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、紗のやうな黒味の奥に浅い紺碧のいろを湛へ、夏の星が、強ひて在所を見つけようとすると却つて判らなくなる程かすかに瞬き始めてゐる。
この時、落葉ともつかず、煤の塊ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢のある宵闇の空間に羽撃き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先きに閃めいてゐる。いつかお涌も子供達に交つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧いた水を甞めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか――
「かあいさうな、夕闇の動物」
お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。
「捕つた/\」
といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚き寄つて行つた。桶屋の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿でうち落して、両翅を抓み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛みつかうとしてゐる。細くて徹つたきいきいといふ鳴声を挙げる。…