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かわ
作品ID4190
著者岡本 かの子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会
1992(平成4)年1月23日
初出「新女苑」1937(昭和12)年5月
入力者門田裕志
校正者湯地光弘
公開 / 更新2005-03-24 / 2016-01-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 かの女の耳のほとりに川が一筋流れてゐる。まだ嘘をついたことのない白歯のいろのさざ波を立てゝ、かの女の耳のほとりに一筋の川が流れてゐる。星が、白梅の花を浮かせた様に、或夜はそのさざ波に落ちるのである。月が悲しげに砕けて捲かれる。或る夜はまた、もの思はしげに青みがかつた白い小石が、薄月夜の川底にずつと姿をひそめてゐるのが覗かれる。
 朝の川波は蕭条たるいろだ。一夜の眠から覚めたいろだ。冬は寒風が辛くあたる。をとめのやうにさざ波は泣く。よしきりが何処かで羽音をたてる。さざ波は耳を傾け、いくらか流れの足をゆるめたりする。猟師の筒音が聞える。この川の近くに、小鳥の居る森があるのだ。
 昼は少しねむたげに、疲れて甘えた波の流れだ。水は鉛色に澄んで他愛もない川藻の流れ、手を入れゝばぬるさうだが、夕方から時雨れて来れば、しよげ返る波は、笹の葉に霰がまろぶあの淋しい音を立てる波ではあるが、たとへいつがいつでも此の川の流れの基調は、さらさらと僻まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に絶えず、かの女の耳のほとりを流れてゐる。かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流してゐる。
 かの女は水の浄らかな美しい河の畔でをとめとなつた女である。其の川の水源は甲斐か秩父か、地理に晦いをとめの頃のかの女は知らなかつた。たゞ水源は水晶を産し、水は白水晶や紫水晶から滲み出るものと思つて居た。春はその水晶山へ、はら/\と一重桜が散りかかるのを想像する。春は水嵩も豊で、両岸に咲く一重桜の花の反映の薄べに色に淵は染んでも、瀬々の白波はます/\冴えて、こまかい荒波を立てゝゐる。筏乗りが青竹の棹をしごくと水しぶきが粉雪のやうに散つて、ぶん流し、ぶん流し行く筏の水路は一条の泡を吐いて走る白馬だ。筏板はその先に逃げて水と殆ど一枚板だ。筏師はあたかも水を踏んで素足でつつ走る奇術師のやうだ。そのすばしこさに似合ふやうな、似合はぬやうな山地のうすのろい唄の哀愁のメロデーを長閑に河面に響かせて筏師は行く。
 或る初夏の夕暮、をとめのかの女は、河神が来て、冴えた刃物で、自分の処女身を裂いても宜い、むしろ裂いて呉れと委せ切つた姿態を投げた――白野薔薇の花の咲き群れた河原のひと処、夕闇の底に拡がるむら花のほの白さが真珠の床のやうに冷たくかすかに光り、匂やかな露をふくんでをとめのかの女を待つてゐた。をとめのかの女は性慾を感じ始めて居た。性慾の敏感さ――凡て、執拗なもの、陰影を持つもの、堆積したもの、揺蕩するもの等がなつかしく、同時にそれ等はまたかの女に限りなく悩やましく、わづらはしかつた。かの女はをとめの身で大胆にもかの女の家の夕暮時の深窓を逃れ来て、此処の川辺の夕暮にまぎれ、河原の玲澄な野薔薇の床に横たはる。薄い毛織の初夏の着物を通す薔薇の棘の植物性の柔か…

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