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雪
ゆき |
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作品ID | 4192 |
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著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会 1992(平成4)年1月23日 |
初出 | 「改造」1932(昭和7)年6月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 湯地光弘 |
公開 / 更新 | 2005-03-24 / 2016-01-16 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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遅い朝日が白み初めた。
木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉が開く。
「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」
さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭の雪へ下りて行つた。雪は深かつた。もう止んでゐた。
「それからアメリカとフランスとの間にそれが流行となつて活動女優のグロリア・スワンソンまでがラ・ファレイズ侯爵と結婚するやうになつたのさ。」
侯爵はそこで体を屈めた。指で雪を掬ひ上げてぢつと見詰めた。それから手首を外側へしなはせると雪片は払ふまでもなく落ちた。
「実際フランスの貴族といふものは世界中で一番完成した人間だらう。その証拠にはあらゆる理解と才能を備へてゐてたつた一つ働くことが出来ないことだ。歴史を見ても判る。その階級として最高の完成に達した人間はみなこの通りだ。」
そこにロココ風の隠れ家式の小亭がある。侯爵は枯蔦をひいて廂の雪を落した。家のなかに寝てゐた薄闇が匂ひもののやうに大気へ潤染んで散る。腰嵌めの葡萄蔓の金唐草に朝の光がまぶしく射す。侯爵は座板に腰掛けずにそのまま入口の柱に凭れた。背中が羅紗地を距ててニンフの浮彫にさはる。
「その人間は美しく滅びるよりほかあるまい。完成を味ひつつ消去るよりほかはあるまい。Le monde se meurt. Le monde est mort.(地球は自殺する。地球は死である。)まつたくわたし達にはうつてつけの言葉だ。だが、世間にはまた働く貴族といふ者があるにはある。五ヶ国語を話してトーマス・クックの案内人を勤める伊太利男爵もあれば刺繍とピアノを教へる嫁入学校を拵へて一儲けする波蘭伯爵もある。しかし、それは地球の自殺の仕損じと同じものだ。結局灰滅は時期の問題だ。」
侯爵はここで少し笑つた。フォウブルグ・サン・ジ※[#「小書き片仮名ヱ」、203-14]ルマンの丈の高い屋敷町に取籠められたこの庭でたつた一人がどんなに笑ふとしたところで周囲の朝寝を妨げはしない。まして侯爵の笑ひは淡々として水に落ちる雫のやうだ。波紋もさう遠くへ送る力は無い。
「そこで金だ。滅びる支度の金だ。いのちを享楽のしめ木にかけ、いのちを消費の火に燃す支度の金だ。アンナは金持だつた。瑪瑙の万年筆で小切手を落書のやうに書いた。アンナのほかのことには心を惹かれなかつたが小切手を書く速さに心を惹かれた。結婚期限は五年ではいかゞ。『侯爵夫人』をあなたの帽子の鳥毛に使つてみてはいかが。この申出が果してフランス貴族の恥辱であらうか。働くことはフランス貴族の恥辱だが貸すことは名誉だ。わたしはわたしのタイトルを五年期限で賃貸することを申出た。
それはフォンテンブローの森へ団体で遠乗りした帰りだつた。二人が仲間から遅れて別荘町を外れかかつた時だつた。道端の垣にリラの花が枝垂れ…