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化銀杏
ばけいちょう
作品ID4264
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「泉鏡花集成2」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日
初出「文芸倶楽部」1896(明治29)年2月
入力者門田裕志
校正者土屋隆
公開 / 更新2006-08-08 / 2014-09-18
長さの目安約 56 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極なり。家主は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家にあらざれば、昼も一枚蔀をおろして、ここは使わずに打捨てあり。
 往来より突抜けて物置の後の園生まで、土間の通庭になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並びて勝手あり、横に二個の竈を並べつ。背後に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋、釜、擂鉢など、勝手道具を載せ置けり。廁は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太く濁りたれば、漉して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗に行届きおれども、そこら煤ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地なり。
 園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地に接し、李の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立あり。沓脱は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個の湯呑は、夫婦別々の好みにて、対にあらず。
 細君は名をお貞と謂う、年紀は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際少しあがりて、髪はやや薄けれども、色白くして口許緊り、上気性と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼の重げに見ゆるが、泣はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中曇を帯びて、見るに俤晴やかならず、暗雲一帯眉宇をかすめて、渠は何をか物思える。
 根上りに結いたる円髷の鬢頬に乱れて、下〆ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮の浴衣を纏いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
 教育のある婦人にあらねど、ものの本など好みて読めば、文書く術も拙からで、はた裁縫の業に長けたり。
 他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹の塵を払いて、慎ましげに音〆をなすのみ。
 お貞は今思出したらむがごとく煙管を取りて、覚束無げに一服吸いつ。
 渠は煙草を嗜むにあらねど、憂を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽せて、落すがごとく煙管を棄て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸れるままその冷むるを待てり。
 時に履物の音高く家に入来るものあるにぞ、お貞は少し慌だしく、急に其方を見向ける時、表の戸をがたりと…

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