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梅花に対する感情
ばいかにたいするかんじょう
作品ID4275
副題このジャアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず
このジャアナリズムのいっぺんをきんげんなるにしかわえいじろうくんにけんず
著者芥川 竜之介
文字遣い新字旧仮名
底本 「芥川龍之介全集 第十巻」 岩波書店
1996(平成8)年8月8日発行
入力者もりみつじゅんじ
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-10-05 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴッホの向日葵の写真版の今日もなほ愛翫せらるる、豈偶然の結果ならんや。(幸ひに GOGH をゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎むること勿れ。予は ANDERSEN をアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)
 こは芸術を使命とするものには白日よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必しも容易の業にあらず。(否、絶対に独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨げざる可し。)殊に万人の詩に入ること、屡なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春」の句を成すを思へ。蕪村の「暮春」を詠ぜし後、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。
 梅花は予に伊勢物語の歌より春信の画に至る柔媚の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎に、まづ予の心を捉ふるものは支那に生じたる文人趣味なり。こは啻に予のみにあらず、大方の君子も亦然るが如し。(是に於て乎、中央公論記者も「梅花の賦」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做すは紅毛碧眼の詩人のことのみ。予等は梅花の一弁にも、鶴を想ひ、初月を想ひ、空山を想ひ、野水を想ひ、断角を想ひ、書燈を想ひ、脩竹を想ひ、清霜を想ひ、羅浮を想ひ、仙妃を想ひ、林処士の風流を想はざる能はず。既に斯くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必しも怪しむを要せざるべし。(こは夙に永井荷風氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是予に今日この真理を盗用せしむる所以なり。)
 予の梅花を見る毎に、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐偽師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを並称するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。
 ひとり是のみに止らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度に風行せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已まん。然れどももし道楽以上の貼札を貼らんとするものあらば、山陽の画を観せしむるに若かず。日本外史は兎も角も一部の歴史小説なり。画に至つては呉か越か、畢につくね芋の山水のみ。更に又竹田の百活矣は如何。これをしも芸…

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