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神鑿
しんさく |
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作品ID | 43467 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ / 泉 鏡太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「新編 泉鏡花集 第八巻」 岩波書店 2004(平成16)年1月7日 |
初出 | 「神鑿」文泉堂書房、1909(明治42)年9月16日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2007-09-19 / 2016-02-22 |
長さの目安 | 約 135 ページ(500字/頁で計算) |
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朱鷺船
一
濡色を含んだ曙の霞の中から、姿も振もしつとりとした婦を肩に、片手を引担ぐやうにして、一人の青年がとぼ/\と顕はれた。
色が真蒼で、目も血走り、伸びた髪が額に被つて、冠物なしに、埃塗れの薄汚れた、処々釦の断れた背広を被て、靴足袋もない素跣足で、歩行くのに蹌踉々々する。
其が婦を扶け曳いた処は、夜一夜辿々しく、山路野道、茨の中を[#挿絵][#挿絵]つた落人に、夜が白んだやうでもあるし、生命懸の喧嘩から慌しく抜出したのが、勢が尽きて疲果てたものらしくもある。が、道行にしろ、喧嘩にしろ、其の出て来た処が、遁げるにも忍んで出るにも、背後に、村、里、松並木、畷も家も有るのではない。山を崩して、其の峯を余した状に、昔の城趾の天守だけ残つたのが、翼を拡げて、鷲が中空に翔るか、と雲を破つて胸毛が白い。と同じ高さに頂を並べて、遠近の峯が、東雲を動きはじめる霞の上に漾つて、水紅色と薄紫と相累り、浅黄と紺青と対向ふ、幽に中に雪を被いで、明星の余波の如く晃々と輝くのがある。……此の山中を、誰と喧嘩して、何処から駆落して来やう? ……
婦は、と云ふと、引担がれた手は袖にくるまつて、有りや、無しや、片手もふら/\と下つて、何を便るとも見えず。臘に白粉した、殆ど血の色のない顔を真向に、ぱつちりとした二重瞼の黒目勝なのを一杯に[#挿絵]いて、瞬もしないまで。而して男の耳と、其の鬢と、すれ/\に顔を並べた、一方が小造な方ではないから、婦の背が随分高い。
然うかと思へば、帯から下は、げつそりと風が薄く、裙は緊つたが、ふうわりとして力が入らぬ。踵が浮いて、恁う、上へ担ぎ上げられて居さうな様子。
二人とも、それで、やがて膝の上あたりまで、乱れかゝつた枯蘆で蔽はれた上を、又其の下を這ふ霞が隠す。
最も路のない処を辿るのではなかつた。背後に、尚ほ覚果てぬ暁の夢が幻に残つたやうに、衝と聳へた天守の真表。差懸つたのは大手道で、垂々下りの右左は、半ば埋れた濠である。
空濠と云ふではない、が、天守に向つた大手の跡の、左右に連なる石垣こそまだ高いが、岸が浅く、段々に埋れて、土堤を掛けて道を包むまで蘆が森をなして生茂る。然も、鎌は長に入れぬ処、折から枯葉の中を透いて、どんよりと霞の溶けた水の色は、日の出を待つて、さま/″\の姿と成つて、其から其へ、ふわ/\と遊びに出る、到る処の、あの陽炎が、こゝに屯したやうである。
其の蘆がくれの大手を、婦は分けて、微吹く朝風にも揺らるゝ風情で、男の振つくとゝもに振ついて下りて来た。……若しこれで声がないと、男女は陽炎が顕はす、其の最初の姿であらうも知れぬ。
が、青年が息切れのする声で、言ふのを聞け。
「寐るなんて、……寐るなんて、何うしたんだらう。真個、気が着いて自分でも驚いた。白んで来たもの。何時の間に夜が明…