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![]() しゅじゅのことば |
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作品ID | 43751 |
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著者 | 芥川 竜之介 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「芥川龍之介全集 第十三巻」 岩波書店 1996(平成8)年11月8日 |
初出 | 「文芸春秋 第一年第一号~第三年第一一号」1923(大正12)年1月1日~1925(大正14)年11月1日 |
入力者 | 五十嵐仁 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2007-10-11 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 65 ページ(500字/頁で計算) |
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星
太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するさうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いてゐることは出来ない。何時か一度は冷灰のやうに、美しい光を失つてしまふ。のみならず死は何処へ行つても常に生を孕んでゐる。光を失つたヘラクレス星群も無辺の天をさまよふ内に、都合の好い機会を得さへすれば、一団の星雲と変化するであらう。さうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起つてゐることも、実はこの泥団の上に起つてゐることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環してゐるのである。
さう云ふことを考へると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表はしてゐるやうにも思はれるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたひ上げた。
真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり
しかし星も我我のやうに流転を閲すると云ふことは――兎に角退屈でないことはあるまい。
鼻
クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歴史はその為に一変してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云ふものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥つたが最後、最も完全に行はれるのである。
アントニイもさう云ふ例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、努めてそれを見まいとしたであらう。又見ずにはゐられない場合もその短所を補ふべき何か他の長所を探したであらう。何か他の長所と云へば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具へた女性は一人もゐないのに相違ない。アントニイもきつと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償ひを見出したであらう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を挙げれば、以前或名士に愛されたと云ふ事実乃至風評さへ、長所の一つに数へられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢と神秘とに充ち満ちたエヂプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄んでゐれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかつたであらう。況やアントニイの眼をやである。
かう云ふ我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限つたことではない。我我は多少の相違さへ除け…