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ある男の死
あるおとこのし
作品ID438
著者岡本 かの子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆69 男」 作品社
1988(昭和63)年7月25日
入力者渡邉つよし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2000-07-11 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 A! 女学校では、当時有名な話でありました。それは
『二時間目事件。』
 といふのでした。
 新学期がはじまつてから二ヶ月程後のある日、朝から二時間目の歴史の時間に起つたこと。と書きたてるほど大げさなことでもないのに、それをそれほど有名にしたのは、まつたく、その男の――つまり、その歴史の時間での先生である溝口文学士の性格によるのでした。
 やんちや盛りの、何かことあれかしと、いつも何事かまちかまへて居るやうな女学生の――それがまして、四年生頃の十六七を揃へて何処かにヱロチシズムなおもくるしさを交へながらのやんちやは、どうもたまらなく或る、不快と快感をごつちやに、若い男の先生などに与へると見えまして、その溝口先生も四月の新学期に始めて、その教室に現はれた時から、何となくおびえてでも居るやうに常に度の強い眼鏡の奥の眼ぶちを赤くふるはして居るやうに見えて居ました。一たいが、小づくりで、薄皮膚の色の白いやはらかに素直な毛をそつとわけて声もほそぼそと、歴史といふ遠い昔の夢をロマンチツクにおどおどと語る――ただ、すこしほんのすこしではあるけれども、見栄坊に気どつて年頃の女生徒への多少の対感意識はあつたやうでした。否々、それが内所には実に非常に多かつた為に遂にはその件が次のやうなあまり意外な結果となつてしまつたのでありませう。
 その先生が、或る日、つまり新学期がはじまつて二ヶ月程してからの六月始めの朝から二時間目の歴史の時間に。
『そして、その時藤原の鎌足公は……』
 と、すこし気どつた細い声で華奢な片手を片一方の腰部にあてて、いかにもロマンチツクに語り続ける最中に、
 どかん
 と教壇から片足落して、次いで溝口先生は一たまりもなく溝口先生の短い足のふみ場としては生憎谷のやうにふかかつた教壇下の床の上に体をなげだされてしまひました。生徒一同がそれを見て、始めに書いたやうな生徒一同がそれを見てどうして笑ひさわがないで居ませう。なかで勢の好い女の児は、わつわと男の児のやうにはやしたてました。おとなしいのは、それよりもむしろこたへるくすくす笑ひです。
 先生は真赤な顔を抑へて、いつか教室から消えて居ました。
 溝口先生は、それから一度も学校へ姿をみせませんでした。
 二時間目事件が学校内の雑多な評判のなかからすつかり消えた頃、神経衰弱で東北の方へ転地して居た溝口先生が、なくなられたと学校へ聞えて来ました。が何故か生徒間では、こはいものにさはりでもするやうに、二時間目事件を口にするものはありませんでした。



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