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病院の窓
びょういんのまど
作品ID45468
著者石川 啄木
文字遣い新字旧仮名
底本 「石川啄木全集 第三巻 小説」 筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日
入力者Nana ohbe
校正者川山隆
公開 / 更新2008-11-11 / 2014-09-21
長さの目安約 68 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 野村良吉は平日より少し早目に外交から帰つた。二月の中旬過の、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて来たから、指先に穴のあいた足袋が気持悪く濡れて居た。事務室に入つて、受付の広田に聞くと、同じ外勤の上島も長野も未だ帰つて来ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
 暫時其処の暖炉にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る暖炉に自暴に擦り付けると、シユッシユッと厭な音がして、変な臭気が鼻を撲つ。苦い顔をして階段を上つて、懐手をした儘耳を欹てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首巻と毛羅紗の鳥打帽を打釘に懸けて、其手で扉を開けて急がしく編輯局を見廻した。一月程前に来た竹山と云ふ編輯主任は、種々の新聞を取散らかした中で頻りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた広い背を此方に向けて、暖炉の傍の窓際で新着の雑誌らしいものを読んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少なからず渠の心を悩ませて居たのだ。役所廻りをして、此間やつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中それが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
 ホツと安堵すると妙な笑が顔に浮んだ。一足入つて、扉を閉めて、
『今日は余程道が融けましたねす。』
と、国訛りの、ザラザラした声で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は暖炉の側にあつた椅子を引ずつて来て腰を下した。古新聞を取つて性急に机の塵を払つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか訳もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚攫んで来て、懐から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと気乗のする材料も無かつたので、「不漁だ、不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す様な気がする。両の袂を探つたが煙草が一本も残つて居ない。野村は顔を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
 編輯局は左程広くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が気持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も拡げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染が、新らしい机だけに、胸が苛々する程血腥い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
 此新聞は、昔貧小な週刊であつた頃から、釧路の町と共に発達して来た長い歴史を持つて居…

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