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売春婦リゼット
ばいしゅんふリゼット
作品ID4548
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「愛よ、愛」 パサージュ叢書、メタローグ
1999(平成11)年5月8日
初出「三田文学」1932(昭和7)年8月号
入力者門田裕志
校正者土屋隆
公開 / 更新2004-04-27 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 売春婦のリゼットは新手を考えた。彼女はベッドから起き上りざま大声でわめいた。
「誰かあたしのパパとママンになる人は無いかい。」
 夕暮は迫っていた。腹は減っていた。窓向うの壁がかぶりつきたいほどうまそうな狐色に見えた。彼女は笑った。横隔膜を両手で押えて笑った。腹が減り過ぎて却っておかしくなる時が誰にでもあるものだ。
 廊下越しの部屋から椅子直しのマギイ婆さんがやって来た。
「どうかしたのかい、この人はまるで気狂いのように笑ってさ。」
 リゼットは二日ほど廉葡萄酒の外は腹に入れないことを話した。廉葡萄酒だけは客のために衣裳戸棚の中に用意してあった。マギイ婆さんが何か食物を心配しようと云い出すのを押えてリゼットは云った。
「あたしゃやけで面白いんだよ。うっちゃっといておくれよ。だがこれだけは相談に乗っとお呉れ。」
 彼女はあらためてパパとママンになりそうな人が欲しいと希望を持ち出した。この界隈に在っては総てのことが喜劇の厳粛性をもって真面目に受け取られた。
 マギイ婆さんが顔の筋一つ動かさずに云った。
「そうかい。じゃ、ママンにはあたしがなってやる。そうしてと――。」
 パパには鋸楽師のおいぼれを連れて行くことを云い出した。おいぼれとただ呼ばれる老人は鋸を曲げながら弾いていろいろなメロディを出す一つの芸を渡世として場末のキャフェを廻っていた。だが貰いはめったに無かった。
「もしおいぼれがいやだなんて云ったらぶんなぐっても連れていくよ。あいつの急所は肝臓さ。」
 マギイ婆さんは保証した。序に報酬の歩合をきめた。婆さんは一応帰って行った。
 リゼットは鏡に向った。そこで涙が出た。諺の「ボンネットを一度水車小屋の磨臼に抛り込んだ以上」は、つまり一度貞操を売物にした以上は、今さら宿命とか身の行末とかそんな素人臭い歎きは無い。ただ鏡がものを映し窓掛けが風にふわふわ動く。そういうあたりまえのことにひょいと気がつくと何とも知れない涙が眼の奥から浸潤み出るのだ。いつかもこういう事があった。
 掛布団の端で撥ねられた寝床人形が床に落ちて俯向きになっていた。鼻を床につけて正直にうつ向きになっていた。ただそれだけが彼女を一時間も悲しく泣かした。
 涙と寝垢をリスリンできれいに拭き取ってそのあとの顔へ彼女は「娘」を一人絵取り出した。それは実際にはありそうも無い「娘」だった。曲馬の馬に惚れるような物語の世界にばかり棲み得る娘であった。この嘘を現在の自分として今夜の街に生きる不思議を想うと彼女は嬉しくて堪らなくなった。彼女はおしろいを指の先に捻じつけて鏡の上に書いた。
「わたしの巴里!」
 マギイ婆さんとおいぼれがやって来た。二人とも案外見られる服装をしてやって来た。この界隈の人の間には共通の負けん気があった。いざというときは町の小商人にヒケはとらないという性根であった。その性根で用意し…

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