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巴里のむす子へ
パリのむすこへ
作品ID4549
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「愛よ、愛」 パサージュ叢書、メタローグ
1999(平成11)年5月8日
初出「新女苑」1937(昭和12)年4月号
入力者門田裕志
校正者土屋隆
公開 / 更新2004-04-27 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 巴里の北の停車場でおまえと訣れてから、もう六年目になる。人は久しい歳月という。だが、私には永いのだか短いのだか判らない。あまりに日夜思い続ける私とおまえとの間には最早や直通の心の橋が出来ていて、歳月も距離も殆ど影響しないように感ぜられる。私たち二人は望みの時、その橋の上で出会うことが出来る。おまえはいつでも二十の青年のむす子で、私はいつでも稚純な母。「だらしがないな、羽織の襟が曲ってるよ、おかあさん、」「生意気いうよ、こどもの癖に、」二人は微笑して眺め合う。永劫の時間と空間は、その橋の下の風のように幽かに音を立てて吹き過ぎる。
 二人の想いは宗教の神秘性にまで昂められている。恐らく生を更え死を更えても変るまい。だが、ふとしたことから、私は現実のおまえに気付かせられることがある。すると無暗に現実のおまえに会い度くなる。巴里が東京でないのが腹立たしくなる。
 それはどういうときだというと、おまえに肖た青年の後姿を見たとき、おまえの家へ残して行った稽古用品や着古した着物が取出されるとき。それから、思いがけなく、まるで違ったものからでもおまえを連想させられる。ぼんの窪のちぢりっ毛や、の太い率直な声音、――これ等も打撃だ。こういうとき、私は強い衝動に駆られて、若し許さるるなら私は大声挙げて「タロー! タロー!」と野でも山でも叫び廻り度い気がする。それが出来ないばかりに、私は涙ぐんで蹲りながらおまえの歌を詠む。おまえがときどき「あんまり断片的の感想で、さっぱり判りませんね。もっと冷静に書いて寄越して下さい」と苦り切った手紙を寄越さなければならないほどの感情にあふれた走り書を私が郵送するのも多くそういうときである。だが、おまえが何といおうとも、私はこれからもおまえにああいう手紙を書き送る。何故ならば、それを止めることは私にとって生理的にも悪い。
 おまえは、健康で、着々、画業を進捗していることは、そっちからの新聞雑誌で見るばかりでなく、この間来たクルト・セリグマン氏の口からも、または横光利一さんの旅行文、読売の巴里特派員松尾邦之助氏の日本の美術雑誌通信でも親しく見聞きして嬉しい。健気なむす子よと言い送り度い。年少で親を離れ異国の都で、よくも路を尋ね、向きを探って正しくも辿り行くものである。辛いこともあったろう。辱しめも忍ばねばならなかったろう。一たい、おまえは私に似て情熱家肌の純情屋さんなのに、よくも、そこを矯め堪えて、現実に生きる歩調に性情を鍛え直そうとした。
「おかあさん、感情家だけではいけませんよ。生きるという事実の上に根を置いて、冷酷なほどに思索の歩みを進めて下さい。」
 お前は最近の手紙にこう書いた。私はおまえのいうことを素直に受容れる。だが、この言葉はまた、おまえ自身、頑な現実の壁に行き当って、さまざまに苦しみ抜いた果ての体験から来る自戒の言葉ではあるまいか…

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