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浅茅生
あさじう
作品ID4581
著者泉 鏡花
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鏡花全集 巻十四」 岩波書店
1942(昭和17)年3月10日
初出「地球 第1巻第7号」1912(大正元)年10月
入力者門田裕志
校正者室谷きわ
公開 / 更新2022-09-07 / 2022-08-27
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 鐘の聲も響いて來ぬ、風のひつそりした夜ながら、時刻も丁ど丑滿と云ふのである。……此の月から、桂の葉がこぼれ/\、石を伐るやうな斧が入つて、もつと虧け、もつと虧けると、やがて二十六夜の月に成らう、……二十日ばかりの月を、暑さに一枚しめ殘した表二階の雨戸の隙間から覗くと、大空ばかりは雲が走つて、白々と、音のない波かと寄せて、通りを一ツ隔てた、向うの邸の板塀越に、裏葉の飜つて早や秋の見ゆる、櫻の樹の梢を、ぱつと照らして、薄明るく掛るか、と思へば、颯と墨のやうに曇つて、月の面を遮るや否や、むら/\と亂れて走る……
 ト火入れに燻べた、一把三錢がお定りの、あの、萌黄色の蚊遣香の細い煙は、脈々として、そして、空行く雲とは反對の方へ靡く。
 其の小机に、茫乎と頬杖を支いて、待人の當もなし、爲う事ござなく、と煙草をふかりと吹かすと、
「おらは呑氣だ。」と煙が輪に成る。
「此方は忙がしい。」
 と蚊遣香は、小刻を打つて畝つて、せつせと燻る。
 が、前なる縁の障子に掛けた、十燭と云ふ電燈の明の屆かない、昔の行燈だと裏通りに當る、背中のあたり暗い所で、蚊がブーンと鳴く……其の、陰氣に、沈んで、殺氣を帶びた樣子は、煙にかいふいて遁ぐるにあらず、落着き澄まして、人を刺さむと、鋭き嘴を鳴らすのである。
 で、立騰り、煽り亂れる蚊遣の勢を、ものの數ともしない工合は、自若として火山の燒石を獨り歩行く、脚の赤い蟻のやう、と譬喩を思ふも、あゝ、蒸熱くて夜が寢られぬ。
 些との風もがなで、明放した背後の肱掛窓を振向いて、袖で其のブーンと鳴くのを拂ひながら、此の二階住の主人唯吉が、六疊やがて半ばに蔓る、自分の影法師越しに透かして視る、雲ゆきの忙しい下に、樹立も屋根も靜まりかへつて、町の夜更けは山家の景色。建續く家は、なぞへに向うへ遠山の尾を曳いて、其方此方の、庭、背戸、空地は、飛々の谷とも思はれるのに、涼しさは氣勢もなし。
「暑い。」
 と自棄に突立つて、胴體ドタンと投出すばかり、四枚を兩方へ引ずり開けた、肱かけ窓へ、拗ねるやうに突掛つて、
「やツ、」と一ツ、棄鉢な掛聲に及んで、其の敷居へ馬乘りに打跨がつて、太息をほツと吐く……
 風入れの此の窓も、正西を受けて、夕日のほとぼりは激しくとも、波にも氷にも成れとて觸ると、爪下の廂屋根は、さすがに夜露に冷いのであつた。
 爾時、唯吉がひやりとしたのは――
 此の廂はづれに、階下の住居の八疊の縁前、二坪に足らぬ明取りの小庭の竹垣を一ツ隔てたばかり、裏に附着いた一軒、二階家の二階の同じ肱掛窓が、南を受けて、此方とは向を異へて、つい目と鼻の間にある……其處に居て、人が一人、燈も置かず、暗い中から、此方の二階を、恁う、窓越しに透かすやうにして涼むらしい姿が見えた事である。――
「や、」
 たしかに、其家は空屋の筈。



 唯さへ、思ひ掛けない人影で…

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