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艶書
えんしょ
作品ID4584
著者泉 鏡花 / 泉 鏡太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鏡花全集 巻十五」 岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷 
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2011-09-09 / 2014-09-16
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あゝもし、一寸。」
「は、私……でございますか。」
 電車を赤十字病院下で下りて、向うへ大溝について、岬なりに路を畝つて、あれから病院へ行くのに坂がある。あの坂の上り口の所で、上から來た男が、上つて行く中年増の媚かしいのと行違つて、上と下へ五六歩離れた所で、男が聲を掛けると、其の媚かしいのは直ぐに聞取つて、嬌娜に振返つた。
 兩方の間には、袖を結んで絡ひつくやうに、ほんのりと得ならぬ薫が漾ふ。……婦は、薄色縮緬の紋着の單羽織を、細り、痩ぎすな撫肩にすらりと着た、肱に掛けて、濃い桔梗色の風呂敷包を一ツ持つた。其の四ツの端を柔かに結んだ中から、大輪の杜若の花の覗くも風情で、緋牡丹も、白百合も、透きつる色を競うて映る。……盛花の籠らしい。いづれ病院[#ルビの「びやうゐん」は底本では「びやうろん」]へ見舞の品であらう。路をしたうて來た蝶は居ないが、誘ふ袂に色香が時めく。……
 輕い裾の、すら/\と蹴出にかへると同じ色の洋傘を、日中、此の日の當るのに、翳しはしないで、片影を土手に從いて、しと/\と手に取つたは、見るさへ帶腰も弱々しいので、坂道に得堪へぬらしい、なよ/\とした風情である。
「貴女、」
 と呼んで、ト引返した、鳥打を被つた男は、高足駄で、杖を支いた妙な誂へ。路は恁う乾いたのに、其の爪皮の泥でも知れる、雨あがりの朝早く泥濘の中を出て來たらしい。……雲の暑いのにカラ/\歩行きで、些と汗ばんだ顏で居る。
「唐突にお呼び申して失禮ですが、」
「はい。」
 と一文字の眉はきりゝとしながら、清しい目で優しく見越す。
「此から何方へ行らつしやる?……何、病院へお見舞のやうにお見受け申します。……失禮ですが、」
「えゝ、然うなんでございます。」
 此處で瞻つたのを、輕く見迎へて、一ツ莞爾して、
「否、お知己でも、お見知越のものでもありません。眞個唯今行違ひましたばかり……ですから失禮なんですけれども。」
 と云つて、づツと寄つた。
「別に何でもありませんが、一寸御注意までに申さうと思つて、今ね、貴女が行らつしやらうと云ふ病院の途中ですがね。」
「はあ、……」と、聞くのに氣の入つた婦の顏は、途中が不意に川に成つたかと思ふ、涼しけれども五月半ばの太陽の下に、偶と寂しい影が映した。
 男は、自分の口から言出した事で、思ひも掛けぬ心配をさせるのを氣の毒さうに、半ば打消す口吻で、
「……餘り唐突で、變にお思ひでせう。何も御心配な事ぢやありません。」
「何でございます、まあ、」と立停つて居たのが、二ツばかり薄彩色の裾捌で、手にした籠の花の影が、袖から白い膚へ颯と透通るかと見えて、小戻りして、ト斜めに向合ふ。
「をかしな奴が一人、此方側の土塀の前に、砂利の上に踞みましてね、通るものを待構へて居るんです。」
「えゝ、をかしな奴が、――待構へて――あの婦をですか。」
「否、御婦人に…

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